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ゴニン デ イッシュ





        互いの読みを持ち寄ることで、
        歌の味わいが変わっていく(かも)。
        毎月ある短歌1首について5人が鑑賞文を書く、
        「山羊の木」の期間限定企画です。
「ゴニン デ イッシュ」第1回(2009年8月)
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    今月の5人
    我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
    石川美南――ほどほどの出会い
    川野里子――薬剤師の後ろ姿
    チェンジアッパー――おだやかな空気感
    松澤俊二――表現レベルでの執念



    第1回の短歌は、吉川宏志さんの第1歌集『青蝉』巻頭の1首です。さわやかな歌ですが、上の句は解釈が分かれるのでは?と思い、あえて選んでみました(結果は……5人の鑑賞文を読み比べてみてください)。

    今回お願いしたのは、斉藤斎藤さんのそのつど誌「風通し」でご一緒して以来すっかりファンになってしまった我妻俊樹さん、『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』を上梓されたばかりの、尊敬する川野里子さん、毎日歌壇やNHK短歌へ投稿中、石川が注目する高校1年生歌人チェンジアッパーさん、同人誌「pool」の仲間で、近代短歌の研究者としても活躍する松澤俊二さん(50音順)。1回目なので、石川も参加させていただきました。



    「ゴニン デ イッシュ」とは
    | 第1回(あさがお) | 00:08 | - | - | - | - |
    【第1回(あさがお)】 我妻俊樹
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      agatsuma


       まず目にとまるのは「あさがおが朝を」という小さなリフレインだ。

       五と七の反復する音数から成り立つこの形式を、内側から短歌じしんが模倣するように語句を反復させる、それが短歌におけるリフレインの意味である。定型に納まることですでに短歌化しているはずの言葉が、さらに短歌に近づこうと身をよじるかるい狂気の感覚がリフレインにはある。ここではさらに「あさがお」→「が朝を」というアナグラムまで伴うという執拗さによって狂気の感覚が強調されている。

       また「あさがおが朝を選んで咲く」ことはひとつの発見だが、発見の呈示にあたり「朝を選んで咲く」と切り詰めて表現するところにかすかな圧縮感がみとめられる。

       無数にある朝からこの朝を選ぶ、ということの表現としては一見舌足らず(一日の中で朝という時間を選ぶ意にもとれるため)だが、全体の文脈を踏まえることで事後的に意味が確定される。つまり言葉に意味が遅れてくることで生じるひろがり。定型がもたらす言葉の変形を、読み手のなかの定型意識が引き受けて回復しようとする、いわゆる圧縮から解凍への感覚。その過程(複数とれる意味からひとつに絞り込まれること)がまた「無数にある朝からこの朝を選ぶ」というここに語られている内容と相似を示すといった徹底ぶりもまた、この場が“短歌の狂気”に深く侵されている事実を裏づけるだろう。定型が言葉から正気を奪う、という短歌の本質のひとつがわずかな字数で露呈され、読み手の脳と舌の中間あたりを刺激してくる。

       だが続く「ほどの」で直喩に回収されることによって、ここまでに見たものはすべてひとつの括弧にくくられてしまう。

       下句では作中主体の人生が前景化してくる。“短歌の狂気”は一転して修辞の位置に貶められ人生へと差し出されている。一首の主役となるのはしかし、狂気ではむろんないばかりか前景化した作中主体の人生のほうでもない。ここで何より印象的なのは上下句の危ういバランスに軋みをたてる「ほどの」の演じるアクロバットであり、いいかえれば「ほどの」をここに置くことのできる存在、一首の言葉を操作し演出する作者の隠しきれぬ才気こそが真の主役だったことがあきらかになるだろう。



      我妻俊樹(あがつま・としき)
      1968年横浜市生まれ。2002年頃から作歌。所属なし。http://blog.goo.ne.jp/ggippss/



      【第1回】他の4人を読む
      石川美南――ほどほどの出会い
      川野里子――薬剤師の後ろ姿
      チェンジアッパー――おだやかな空気感
      松澤俊二――表現レベルでの執念

      「ゴニン デ イッシュ」とは
      | 第1回(あさがお) | 23:40 | - | - | - | - |
      【第1回(あさがお)】 石川美南
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        ishikawa


         『青蝉』の巻頭を飾る魅力的な歌だが、読み解こうとすると案外難しい。

         まず、「あさがおが朝を選んで咲く」の解釈にやや迷う。ひとつは、一輪の朝顔が、たくさんの朝の中から「この朝」を選んで咲く、という解釈。もうひとつは、朝・昼・夕のうち、朝を選ぶという解釈だ(どちらを採るかによって、「ほどの」のニュアンスも変わってくる)。前者であれば、意志的に掴み取った一生に一度のタイミング、ということになるが、どちらかと言えば、私は後者を採りたい。

         丈の高い向日葵でも、華美な薔薇でもなく、朝顔と重ねられている二人の関係は、あくまでもさりげなく、慎ましい。運命の恋人なんていう大それたものではない、お互いがごく自然に選び取った、ほどほどの出会い。けれども語り手は、その「ほどほど」をこそ、大切に思っているのではないか。

         確かに向日葵や薔薇と比べれば庶民的な花だが、朝一番に開く朝顔には、日暮れ前にひっそりと咲く夕顔のような、儚げな表情はない。朝・昼・夕の三つしかない選択肢の中で、朝を選んだという、そのほんのちょっぴりの前向きさ加減が、今、二人をつないでいる。どちらが先を行くでもなく肩を並べて歩く二人に、目立たないけれど確実に奇跡は訪れているのだ。



        石川美南(いしかわ・みな)
        1980年生まれ。同人誌poolおよび[sai]で活動。歌集『砂の降る教室』、私家版『物語集』『夜灯集』。集英社「すばる」で「ききみみはひだり耳」連載中。
        山羊の木http://www.yaginoki.com/


        【第1回】他の4人を読む
        我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
        川野里子――薬剤師の後ろ姿
        チェンジアッパー――おだやかな空気感
        松澤俊二――表現レベルでの執念


        「ゴニン デ イッシュ」とは
        | 第1回(あさがお) | 23:35 | - | - | - | - |
        【第1回(あさがお)】 川野里子
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          kawano



           朝顔はなぜ朝咲くのか。昼顔、夕顔、と並べてゆくと、朝顔は朝という時を「選んで」咲くのだと思える。自然の営みの中で、生き残るために選ばれたに違いないその選択は、はかないようであって、微かに意志的でもある。その微かさに吉川の嗅覚が働いているのだ。人は人を選べるのだろうか?それは偶然か、意志か、運命か。人が人と出会う不思議は、それら人間界の手垢にまみれた言葉で考えるより、朝顔が朝を選んで咲く、あの微かな意志に代弁させたほうがずっといい。

           短歌でしか描けないこの世の隙間に宿る事物の神聖さを吉川は好んでいる。それはしばしば薬を調合するときの指先の敏感さのようで、天秤に粉末をあとわずかに足すためにトントンと微かに人差し指で匙を打つ時の風景さえ浮かんでくる。あと一つトンと指さきを動かせば自然界のあの不思議が掴めるだろう。そのトンの加減に全神経を集中している薬剤師の後ろ姿が思われる。



          川野里子(かわの・さとこ)
          1959年大分県生まれ。23歳で作歌を始め、歌誌「かりん」に入会。
          馬場あき子に師事。現在かりん編集委員。
          歌集に『五月の王』『青鯨の日』『太陽の壷』。
          2009年6月『幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』出版。


          【第1回】他の4人を読む
          我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
          石川美南――ほどほどの出会い
          チェンジアッパー――おだやかな空気感
          松澤俊二――表現レベルでの執念


          「ゴニン デ イッシュ」とは
          | 第1回(あさがお) | 23:32 | - | - | - | - |
          【第1回(あさがお)】 チェンジアッパー(屏真太朗)
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            change


            今回の歌を読んで、第一印象は、恋愛の歌だと私は思いました。肩を並べているのは大切な人で、そのひとと過ごす普通のひとときにふと、このひとと出会えて本当によかったと思っている歌だと感じました。この歌で驚かされるところは「あさがおが朝を選んで咲くほどの出会い」というところです。私はこれを「運命の出会い」と読み取りました。朝顔が朝に咲くのは(朝に咲く理由を私は知りませんが)ほぼ運命的なものだと思います。これが大切な人と出会えた奇跡のようなものを感じさせます。しかも、あさがおを使ったことにより、歌にゆるやかな・おだやかな空気感が漂っている気がします。このすこしひっかかるような表現が歌に深さを与えていると思います。あさがおを詠者が用いたのは、大切な人との思い入れがあるのかもしれません。たとえこれが妄想深読みであっても、歌にリアル感を出す効果があると思いました。

            私は吉川宏志さんについて全く存じ上げていないので、歌に、詠者に、どのような背景があるか全く分からないので、歌だけからいろいろ妄想しながら読みました。

            子どものつたない感想文で、申しわけなかったですけど、読んでいただいた方々、吉川宏志さん、今回書かせていただく機会をくださった石川美南さん、他多数の方々、本当にありがとうございました。



            チェンジアッパーこと、屏(へい)真太朗と申します。平成5年生まれの高校一年生です。高校球児(万年補欠の補欠の補欠)です。08年12月から短歌を作り始めました。夢は、甲子園に出ること・短歌をポピュラーにすることです。
            私の短歌ブログ「手元で落ちて」です。http://changeupper.anisen.tv/


            【第1回】他の4人を読む
            我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
            石川美南――ほどほどの出会い
            川野里子――薬剤師の後ろ姿
            松澤俊二――表現レベルでの執念


            「ゴニン デ イッシュ」とは
            | 第1回(あさがお) | 23:16 | - | - | - | - |
            【第1回(あさがお)】 松澤俊二
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              matsuzawa


              生け垣にいくつかあさがおが咲く。それぞれがそれぞれの思いでこの朝を選び咲くのだが、花々は、たまたまこの朝に隣り合っただけなのか。否。互いに何か引き合うように咲くこともあるのではないか。この朝のことを、何か運命のように思ったとしても、実はさほどおおげさとは言えぬのではないか。

              歌は、一句目から三句目にまたがるあさがおのイメージを、四句目の「出会い」へと序詞的に重層させてゆく。もし、上で述べたように、いくつかのあさがおが同じ朝を選びとることに偶然を越えたものがあるのならば、その「出会い」とは、「肩並べ」歩くことは、けして軽々しいものではなく必然的なものとして詠い出されていることになろう。

              ところで評者は、この歌を一読後、さわやかな、ソフトなイメージを受け取った。確かに「ほどの」や「つつ」などの語は、あさがおに支えられた一首全体のイメージに棹さして、歌をやわらかく、あわく、さわやかに仕上げるのに一役買っている。だが実は、それは計算づく(当たり前のことではあるが)で、これらの措辞により、あさがおとあさがおとが結ばれる強靱な意志と計画とが隠蔽される結果となっている。だいたい先の序詞的な技法といい、また一句目から五句目を貫く頭韻といい、更に選び出された簡単な語彙といい、表現のレベルにおいて、その修辞、措辞は大変に的確で、注意深く錬られているのだ。読者に手渡されるイメージとは全く異なる、表現レベルでの執念が、かかる秀歌を支えているのだろう。



              松澤俊二(まつざわ・しゅんじ)
              名古屋大学大学院にて、近代和歌、短歌の功罪について思案中。



              【第1回】他の4人を読む
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              石川美南――ほどほどの出会い
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              「ゴニン デ イッシュ」とは
              | 第1回(あさがお) | 23:00 | - | - | - | - |