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ゴニン デ イッシュ





        互いの読みを持ち寄ることで、
        歌の味わいが変わっていく(かも)。
        毎月ある短歌1首について5人が鑑賞文を書く、
        「山羊の木」の期間限定企画です。
「ゴニン デ イッシュ」第2回(2009年9月)
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    今月の5人
    生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
    奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
    田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
    辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
    本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える



    お待たせしました。第2回の短歌は、北原白秋の『雲母集』から。歌に漂うこの変な気配は何?そして大きなる手の持ち主って誰?と、疑問が一杯の1首です。5人の皆さんも、口々に「この歌は難しい〜」とおっしゃっていましたが、幻想から食の問題まで、それぞれの方の個性と立ち位置が明確に出た、ユニークな一首評が出揃いました。

    今回お願いしたのは、同人誌[sai]の仲間であり、なんだかんだで月に3度くらいはお会いしている気がする、短歌を愛する兄貴分、生沼義朗さん。「コスモス」所属の大大先輩、ただごと歌といえばこの方、奥村晃作さん。「新首都の会」その他、多方面でお世話になりまくりの、えんじゅ組組長こと田中槐さん。「短歌サミット」首謀者にして先月第一歌集を出版されたばかりの辻井竜一さん。そして、歌集『すばらしい日々』など、どこかあやうくも凛とした短歌を作り続けていらっしゃる本田瑞穂さん(50音順)です。



    「ゴニン デ イッシュ」とは
    | 第2回(卵) | 22:05 | - | - | - | - |
    【第2回(卵)】生沼義朗
    0
      gonin2honda


       一読、幻視の歌であり、卵も大きな手も比喩のそれとして読んだ。

       〈累卵の危うき〉などと言う通り、非常に不安定で危険な状態の喩にも使われる卵を、巨人が上からわしづかみにする。「上」も単に方向だけでなく、天や神に対する感覚が内包されている。しかも「手があらはれて」だから、手が最初から存在するのではない。「大きなる手」が突然「あらはれ」るのである。得体の知れない恐怖や不安、さらに<負>が自分たちのいる場所に迫りつつあることの不気味さが「あらはれて」によくあらわれている。

       根拠は「昼深し」の位置だ。語順から察するに、単に昼間に大きい手が鶏か何かの卵をつかんだという歌意ではあるまい。それなら「昼深し」が初句にあっても構わないことになってしまう。「昼深し」が三句にあることにより、「大きなる手」が「昼」にそれこそ深い影を落とす。むしろできた影が一首の眼目と読むべきだろう。

       北原白秋の第二歌集『雲母集』巻頭近くにある「卵」三首一連の二首目。前の歌は〈煌々(くわうくわう)と光りて深き巣のなかは卵ばつかりつまりけるかも〉である。いずれも描かれた景色は一見明快で牧歌的と呼んでいいほどに明るいが、裏面には禍々しいまでに暗い予兆がべったりと貼りついている。そこに気づくとき、一枚の明るい風景は一気に陰画(ネガ)の様相を呈す。掲出歌の力であり、また短歌という器の底知れなさでもある。

       さてその後、卵はどうなったか。割られたか、持ち去られたか、はたまたその場で丸呑みにされたか。いずれにせよ、夜までにはまだ多少の時間がある。その間、作品の時間と解釈はまだ読者の掌中にある。



      生沼義朗(おいぬま・よしあき)
      1975年、東京都新宿区生まれ。 93年、作歌開始。「短歌人」[sai]各同人。歌集『水は襤褸に』(第9回日本歌人クラブ新人賞)、共著『現代短歌最前線 新響十人』。活動状況は http://www.geocities.co.jp/oinumayoshiaki/ 参照のこと。



      【第2回】他の4人を読む
      奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
      田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
      辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
      本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える

      「ゴニン デ イッシュ」とは
      | 第2回(卵) | 21:53 | - | - | - | - |
      【第2回(卵)】奥村晃作
      0
        gonin2honda


        三句に挿入された「昼深し」が状況設定の役割を果たしている。昼が深い、昼が闌けている、と言うことで、暑い春の日か、夏の日の昼下がりの時間帯に作者はいつものように庭に降り、庭の一隅に設置してある鶏小屋に行き、小屋の巣の中に手を差し入れて、あるいは生みたてでまだ温みのある卵を、手に掴み、握り、持ち去ろうとした、その時に湧き起こった思いを述べた歌であろう。

        高瀬一誌なら、三句は不要とし、取り外したであろう。つまり、次のような形としたであろう。

        大きなる手があらはれて上から卵をつかみけるかも


        肝心な点、核心はこの形で十二分に表現されている。
        表現欲求は手と卵の関わり合いの一点にある。

        人間の大きな手が、上から、有無を言わせず、小さな卵を掴み取り、奪い取る。
        鶏の立場に立てばじつに悲惨な光景である。卵はその瞬間に未来を封殺されたのである。

        食とは、他の生命を頂くことであり、それによって自らの生命を養い、生き延びる。

        生まれて来たものは生き抜く権利がある。正当な権利の行使が、他者の正当な権利を奪い取り、蹂躙する。この矛盾に心痛めた作者がその思いを表出した歌であろう。

        生まれて生きる、根源の矛盾、食のテーマに真っ向から挑戦した作であるだろう。



        奥村晃作(おくむら・こうさく)
        長野県飯田市生まれ。73歳。「コスモス」の選者および編集委員。「棧橋」発行人。
        趣味は囲碁とクラシックギター。
        ホームページは閉鎖し、勧められてミクシィに加入(おくさん)。



        【第2回】他の4人を読む
        生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
        田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
        辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
        本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える

        「ゴニン デ イッシュ」とは
        | 第2回(卵) | 21:44 | - | - | - | - |
        【第2回(卵)】田中槐
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          gonin2tanaka


           実景として読むならば、たとえば鶏小屋で卵をつかむ人間の手を、鶏の立場(あるいは第三者として)見ているというような光景だろうか。

           この歌の本歌取りかと思える歌がある。
            あやふくも手が交差してふかきより毛ぶかき桃をつかみ出したり
                                      (岡井隆)

           こちらの歌のほうがより「現実的」であるような気がする。それは二つの手が交差して袋のなかなどにあった桃をつかみ出した、という場面が、「たとえば鶏小屋で」というような設定をしなくても実景として浮かぶからである。そしてその二つの手のうちひとつは、おそらく作者自身の手であることを読者に容易に信じさせる。つかみ出したのは「私」である。

           ところが北原白秋の歌の「大きなる手」は作者の手ではない。「あらはれて」であるから、突如そこに出現した「手」である。さらに「上から」という視点が与えられることから、この光景を作者自身は少し離れたところから見ているような構図となる。見ている「私」なのである。

           この歌が単なる実景ではなく、もっと抽象的なものを描こうとしていることはあきらかである。たとえば「大きなる手」は神の手であり、「卵」は人間という小さな存在である。この構図は魅力的だ。誰でも、大きなる手によってつかみ取られたい、と思っているからだ。

           そしてそう考えてから岡井隆の歌を眺めなおすと、岡井隆の歌も実は単なる桃つかみ取りの歌ではなく見えてくる。「あやふくも」「交差して」「ふかきより」「毛ぶかき」などの語が喩として機能してくる。「私」の位置は違うが、まさに本歌取りと呼べる歌になっていることに気づく。

           それにしても北原白秋のこの歌の謎は「昼深し」である。状況的にはもう少し幻想的な明け方や、混沌とした夕暮れ時のほうが似合う光景かもしれない。そこをあえて真昼間に設定したのはなぜなのだろう。この歌は白昼夢の歌ではないだろうか。北原白秋は、覚醒しながらこの幻想的な光景――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間――を見ているのだ。



          田中槐(たなか・えんじゅ)
          1960年静岡生れ。「未来」所属。年内に第三歌集を上梓予定。
          個人ブログ「槐の塊魂 Ver.2」 http://ameblo.jp/katamaritamashii/


          【第2回】他の4人を読む
          生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
          奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
          辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
          本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える

          「ゴニン デ イッシュ」とは
          | 第2回(卵) | 21:24 | - | - | - | - |
          【第2回(卵)】辻井竜一
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            gonin2tsujii


            この企画の趣旨は、「どんな短歌でも読み方は人それぞれであるわけで、それを持ち寄ることにより変わっていく歌の味わいを楽しむ」的なことであると理解しております。ならば僕はさらにそれを楽しむべく、いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読み、感想を書いてみるという手法をとることにしました。字数が限られていますので、詳しい説明はいたしません。早速始めたいと思います。

            ※2009年7月9日、午後10時38分。自室にて。
            この短歌を一読した際、非常に陳腐な表現ではありますが、僕は「ドキドキしました」。
            「大きなる手」。常人の三倍はあろうかというほどの大きな手が、山積みにされた生卵の上に勢いよく振り下ろされる情景を想像してしまったためです。
            無残にも卵はぐしゃぐしゃに割れ(勢いがよ過ぎたのです)、その手には生温かいどろどろとした液状の(以下略)。

            ※2009年7月10日午前7時20分。自室にて。
            卵と言えばやはり生卵。そして生卵とは、誰かにぶつけるために存在するものであります。彼(あるいは彼女)は、誰に向けてこの「何らかの原因で小人にされてしまった僕にとっては」とてつもないほどの大きさに感じられる(僕の背丈のほぼ4倍あります)生卵を投げるつもりなのでしょうか。それはわかりません。そしてそれが上手く命中すればいいのにと僕が強く願っている理由もよくわかりません。夕暮れ時までにはまだ時間があります。馬鹿げたことほど、白昼堂々とやるべきでしょう。健闘を祈ります。

            ※2009年7月12日深夜。時刻不明。新宿歌舞伎町路上。泥酔状態で書かれたメモより(原文ママ)
            ぶんごぶんご。。賞味きげんきれ見るだけたべれませんけどみてうつくしいです。るっくおんりー。○○○-×××(←※筆者注:何かの電話番号)4時いこうだめ。VODAFON

            (終)



            辻井竜一(つじいりゅういち)
            1978年8月21日生 獅子座A型 
            2007年4月、歌人集団「かばん」入会
            2009年6月、埼玉県川口市にて前代未聞のイベント「短歌サミット」を主催。
            158名を動員。インターネットを中心に各方面に物議を醸し出す。
            2009年夏、荻原裕幸さんプロデュースによる
            第一歌集「ゆっくり、ゆっくり、歩いてきたはずだったのにね」発売。
            HP

            http://www.geocities.jp/ryuichi782002/


            【第2回】他の4人を読む
            生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
            奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
            田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
            本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える

            「ゴニン デ イッシュ」とは
            | 第2回(卵) | 21:12 | - | - | - | - |
            【第2回(卵)】本田瑞穂
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              gonin2honda


               はじめこの歌の眼目は、なんといっても「昼深し」だと思っていた。昼も爛けて、というようなニュアンスかと思うが、あたかも神の手が生まれる前の状態である卵をつかみにくるような絵も浮かぶ、運命論的な読みもできるこの歌の三句に「昼深し」があることによって、少しカメラがひいてまわりの風景が目に入ってきて、いくらか現実的な手触りが加わるように思う。「深し」という言葉で、単純に卵をつかみにくる手が下りてくる動作が強調されるということもあるが、そこで逆に観念だけではない、実際の手とか卵とか、生きたものが存在するような奥行きができるのだと思った。そういうものが感じられてはじめて、『雲母集』のこの歌を含む冒頭の一連である「新生」、新しい人生や歌がはじまるといった意味に触れるように思う。

               しかし『雲母集』を読むと、このすぐあとに二首も三句目に「昼深し」を使っている歌があるし、他にも中盤に一首、それから「昼ふかみ」という言葉もところどころでみることができる。とりたててこの一首のためだけに置かれた言葉というわけではないようだ。少し拍子抜けしたが。

               正直に言うと、『桐の花』の中にある「昼の思」の文章がとても好きなので、自分がこの影響を受けて白秋の歌を読んでしまうところがある。

              (前略)私達は時としてその繊細な平安調の詠嘆、乃至は純情の雅やかなる啜り泣き、若くは都鳥の哀怨調に同じ麗らかな心の共鳴を見出す事はある、而しなほ苦い近代の芸術にはまだその上に耐へがたいセンジュアルな日光の感触と渋い神経の瞬きとを必要とする。繍銀の昼の燻しを必要とする。


               「昼の思」から引用した。この前にも魅力的な記述があって、その部分を読むと、夜や闇や様式のなかで艶をみせるものが、白昼にあるときにみせるある種の痛ましさのようなものが感じられるのであるが、それが「苦い近代の芸術にはまだその上に耐へがたいセンジュアルな日光の感触と渋い神経の瞬きとを必要とする」ということなのだと思う。この一首は大きな調べで「けるかも」でおさめられているが、「昼深し」の風景のなかにあることで成り立っているように感じた。

               『雲母集』の歌は『桐の花』で完成したものを破壊しようとしたと白秋自身がのちに述べているし、この「昼深し」は、暮らした三崎の昼の記憶(実景)からくるものかもしれないけれど、やはりおなじひとりの歌人が作る歌である、どこかで通底しているのだろうと思いたくて、こんな風に読んでしまうのである。



              本田瑞穂(ほんだ・みずほ)
              歌人集団「かばん」所属。歌集に『すばらしい日々』。最近は編み物のことばかりのブログ「きっとどこかに集まる部屋が」http://bluejourney.jugem.jp



              【第2回】他の4人を読む
              生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
              奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
              田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
              辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと

              「ゴニン デ イッシュ」とは
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