2009.08.16 Sunday
【第1回(あさがお)】 松澤俊二

生け垣にいくつかあさがおが咲く。それぞれがそれぞれの思いでこの朝を選び咲くのだが、花々は、たまたまこの朝に隣り合っただけなのか。否。互いに何か引き合うように咲くこともあるのではないか。この朝のことを、何か運命のように思ったとしても、実はさほどおおげさとは言えぬのではないか。
歌は、一句目から三句目にまたがるあさがおのイメージを、四句目の「出会い」へと序詞的に重層させてゆく。もし、上で述べたように、いくつかのあさがおが同じ朝を選びとることに偶然を越えたものがあるのならば、その「出会い」とは、「肩並べ」歩くことは、けして軽々しいものではなく必然的なものとして詠い出されていることになろう。
ところで評者は、この歌を一読後、さわやかな、ソフトなイメージを受け取った。確かに「ほどの」や「つつ」などの語は、あさがおに支えられた一首全体のイメージに棹さして、歌をやわらかく、あわく、さわやかに仕上げるのに一役買っている。だが実は、それは計算づく(当たり前のことではあるが)で、これらの措辞により、あさがおとあさがおとが結ばれる強靱な意志と計画とが隠蔽される結果となっている。だいたい先の序詞的な技法といい、また一句目から五句目を貫く頭韻といい、更に選び出された簡単な語彙といい、表現のレベルにおいて、その修辞、措辞は大変に的確で、注意深く錬られているのだ。読者に手渡されるイメージとは全く異なる、表現レベルでの執念が、かかる秀歌を支えているのだろう。
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松澤俊二(まつざわ・しゅんじ)
名古屋大学大学院にて、近代和歌、短歌の功罪について思案中。
【第1回】他の4人を読む
■我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
■石川美南――ほどほどの出会い
■川野里子――薬剤師の後ろ姿
■チェンジアッパー――おだやかな空気感
■「ゴニン デ イッシュ」とは