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ゴニン デ イッシュ





        互いの読みを持ち寄ることで、
        歌の味わいが変わっていく(かも)。
        毎月ある短歌1首について5人が鑑賞文を書く、
        「山羊の木」の期間限定企画です。
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【第1回(あさがお)】 我妻俊樹
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    agatsuma


     まず目にとまるのは「あさがおが朝を」という小さなリフレインだ。

     五と七の反復する音数から成り立つこの形式を、内側から短歌じしんが模倣するように語句を反復させる、それが短歌におけるリフレインの意味である。定型に納まることですでに短歌化しているはずの言葉が、さらに短歌に近づこうと身をよじるかるい狂気の感覚がリフレインにはある。ここではさらに「あさがお」→「が朝を」というアナグラムまで伴うという執拗さによって狂気の感覚が強調されている。

     また「あさがおが朝を選んで咲く」ことはひとつの発見だが、発見の呈示にあたり「朝を選んで咲く」と切り詰めて表現するところにかすかな圧縮感がみとめられる。

     無数にある朝からこの朝を選ぶ、ということの表現としては一見舌足らず(一日の中で朝という時間を選ぶ意にもとれるため)だが、全体の文脈を踏まえることで事後的に意味が確定される。つまり言葉に意味が遅れてくることで生じるひろがり。定型がもたらす言葉の変形を、読み手のなかの定型意識が引き受けて回復しようとする、いわゆる圧縮から解凍への感覚。その過程(複数とれる意味からひとつに絞り込まれること)がまた「無数にある朝からこの朝を選ぶ」というここに語られている内容と相似を示すといった徹底ぶりもまた、この場が“短歌の狂気”に深く侵されている事実を裏づけるだろう。定型が言葉から正気を奪う、という短歌の本質のひとつがわずかな字数で露呈され、読み手の脳と舌の中間あたりを刺激してくる。

     だが続く「ほどの」で直喩に回収されることによって、ここまでに見たものはすべてひとつの括弧にくくられてしまう。

     下句では作中主体の人生が前景化してくる。“短歌の狂気”は一転して修辞の位置に貶められ人生へと差し出されている。一首の主役となるのはしかし、狂気ではむろんないばかりか前景化した作中主体の人生のほうでもない。ここで何より印象的なのは上下句の危ういバランスに軋みをたてる「ほどの」の演じるアクロバットであり、いいかえれば「ほどの」をここに置くことのできる存在、一首の言葉を操作し演出する作者の隠しきれぬ才気こそが真の主役だったことがあきらかになるだろう。



    我妻俊樹(あがつま・としき)
    1968年横浜市生まれ。2002年頃から作歌。所属なし。http://blog.goo.ne.jp/ggippss/



    【第1回】他の4人を読む
    石川美南――ほどほどの出会い
    川野里子――薬剤師の後ろ姿
    チェンジアッパー――おだやかな空気感
    松澤俊二――表現レベルでの執念

    「ゴニン デ イッシュ」とは
    | 第1回(あさがお) | 23:40 | - | - | - | - |