2009.09.23 Wednesday
【第2回(卵)】田中槐

実景として読むならば、たとえば鶏小屋で卵をつかむ人間の手を、鶏の立場(あるいは第三者として)見ているというような光景だろうか。
この歌の本歌取りかと思える歌がある。
あやふくも手が交差してふかきより毛ぶかき桃をつかみ出したり
(岡井隆)
こちらの歌のほうがより「現実的」であるような気がする。それは二つの手が交差して袋のなかなどにあった桃をつかみ出した、という場面が、「たとえば鶏小屋で」というような設定をしなくても実景として浮かぶからである。そしてその二つの手のうちひとつは、おそらく作者自身の手であることを読者に容易に信じさせる。つかみ出したのは「私」である。
ところが北原白秋の歌の「大きなる手」は作者の手ではない。「あらはれて」であるから、突如そこに出現した「手」である。さらに「上から」という視点が与えられることから、この光景を作者自身は少し離れたところから見ているような構図となる。見ている「私」なのである。
この歌が単なる実景ではなく、もっと抽象的なものを描こうとしていることはあきらかである。たとえば「大きなる手」は神の手であり、「卵」は人間という小さな存在である。この構図は魅力的だ。誰でも、大きなる手によってつかみ取られたい、と思っているからだ。
そしてそう考えてから岡井隆の歌を眺めなおすと、岡井隆の歌も実は単なる桃つかみ取りの歌ではなく見えてくる。「あやふくも」「交差して」「ふかきより」「毛ぶかき」などの語が喩として機能してくる。「私」の位置は違うが、まさに本歌取りと呼べる歌になっていることに気づく。
それにしても北原白秋のこの歌の謎は「昼深し」である。状況的にはもう少し幻想的な明け方や、混沌とした夕暮れ時のほうが似合う光景かもしれない。そこをあえて真昼間に設定したのはなぜなのだろう。この歌は白昼夢の歌ではないだろうか。北原白秋は、覚醒しながらこの幻想的な光景――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間――を見ているのだ。
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田中槐(たなか・えんじゅ)
1960年静岡生れ。「未来」所属。年内に第三歌集を上梓予定。
個人ブログ「槐の塊魂 Ver.2」 http://ameblo.jp/katamaritamashii/
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