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ゴニン デ イッシュ





        互いの読みを持ち寄ることで、
        歌の味わいが変わっていく(かも)。
        毎月ある短歌1首について5人が鑑賞文を書く、
        「山羊の木」の期間限定企画です。
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【第4回(罪)】東郷雄二
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    ゴニンデイッシュ東郷


     歌は一首の屹立をめざすべしとの立場に立てば、一首の読みは同じ作者の他の歌や作者の境涯とは独立してなされるべきだろう。今仮にその立場で読むとすると、この歌は上二句と下三句に分かれる。上句の「罪得てぞ月は見るべし」は、古事談の「あはれ、罪なくして配所の月を見ばや」や、徒然草の「配所の月、罪なくて見ん事」をただちに思い出させる。「配所の月」は古典的テーマであり、罪もないのに配流の憂き目に遭い、侘びしく月を眺めるあはれを意味するが、馬場はこれを逆転して、そのような境遇でこそ月は見るべきだと言う。罪を得てこそ月の光は冴える。そこに宿命を引き受けようとする作者の強い決意が感じられる。

     上句の決然とした言挙げとは対照的に、下句の歌意は取りにくい。「犯さざる非力の腕」は自分の非力を嘆いているのだが、何に対する非力かは明らかでない。また結句の「闇よせている」は文語を基調とする馬場には珍しく口語で、「寄せる」には「波が寄せる」の自動詞用法と、「白波が玉藻を寄せる」の他動詞用法とがあり、これも判然としない。しかしここは自動詞と取り、「闇が非力の腕に寄せている」と解釈すべきだろう。この闇は単なる夜の暗さではなく、自らの非力を痛感する心情と呼応する心の闇でもあることは言を俟たない。

     馬場はいかなる宿命を引き受けようとしているのか、また何に対する非力か。この解釈は一首に課した枠をはみ出す。この歌は馬場の第五歌集『桜花伝承』(1977年)収録の「ばさら絵」連作中の一首である。同歌集には、「五蘊皆空さあれ飢えあるきさらぎや見えざる餓鬼の群れにわが居る」や、「川の辺に臥して思えば身のつよき思想ならずや野たれ死にとは」といった強い思いを吐露した歌が多くある。あとがきで馬場は、戦争に押しつぶされた青春の中で桜への複雑な思いが生まれたと語っている。ならば馬場が引き受けようとしている宿命とは、戦火にまみれた過去の青春であり、また選び取った風狂の道の果てにある野垂れ死という恩寵であろう。「罪得てぞ月は見るべし」という断定は、このような強い決意から発したものだと思われるのである。スーパーフラットと化した現代においては、すでに望むべくもない古譚の観すらある。



    東郷雄二(とうごう・ゆうじ)
    本業は意味論や談話理論を研究する京都在住の言語学者。自身のホームページで2003年4月から2007年4月まで「今週の短歌」で短歌評を書き、2008年4月から「橄欖追放」として再開。
    「今週の短歌」http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka.html
    「橄欖追放」http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/kanran.html


    【第4回】他の4人を読む
    高島裕――この時代を生き抜こうとする意志
    谷村はるか――罪もまた賜わり物
    服部真里子――少女は息をのみ、うなずく
    虫武一俊――月も闇をそばに抱えている

    「ゴニン デ イッシュ」とは
    | 第4回(罪) | 03:26 | - | - | - | - |