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ゴニン デ イッシュ





        互いの読みを持ち寄ることで、
        歌の味わいが変わっていく(かも)。
        毎月ある短歌1首について5人が鑑賞文を書く、
        「山羊の木」の期間限定企画です。
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【第6回(逆)】荻原裕幸
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    gonin6ogihara


    穂村弘の短歌の印象が大きく変化したと感じたのは、歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』をまとめる直前の頃だが、一人称を手紙魔の女性として設定するなど、方法的なファクターが表面を覆っていて、根本のところで何が変化したのか、まるで理解できないでいた。昨今の作品を読むと、その変化が何によるものなのか、少しづつあきらかになって来ているように思う。単純化して述べてしまうと、以前は、たとえば歌集『シンジケート』に見られるように、私の失敗、を絶対的に許容しつづける誰かの存在が感じられて、以後は、私の失敗、を無言で責め続ける誰かの存在が感じられるのだ。

    この「携帯電話」の一首は、以前から変化のない、どこかちょっと不器用な一人称が描かれてはいるが、以前には見られた、誰か絶対的な許容者に支えられながらそれを笑いとばしてしまうだけの明るさがどこにもない。読者としても、読んでこの不器用さを笑うことに何かためらいが生じるのだ。それほど不器用ならもっと慎重に行動しろよ、とも思うのだが、これだけ単純な動作で失敗を繰り返す背景には、よほどの焦慮や緊張が渦巻いているのだと考えるのが妥当だろう。以前、不器用なのにスマートな行動に憧れるという印象だった一人称はここにはおらず、誰かに無言で失敗を責め続けられるがゆえ、不器用なのに完璧な行動を求める一人称の姿が浮かんで来る。行動の基準にあるものが、恋人の視点から社会の視点に変化したと言えば、そこに一人称の成長に類するものを見ることもできそうだが、一九八〇年代は、社会の視点が恋人の視点であって、現在は、社会が社会の視点を取り戻したのだと、そう理解しておいた方が的確な気はする。



    荻原裕幸(おぎはら・ひろゆき)
    1962年生まれ。名古屋在住。歌人。
    ブログ http://ogihara.cocolog-nifty.com/


    【第6回】他の4人を読む
    宇都宮敦――孤絶の希求が連帯の希求に重なる
    岡本雅哉――これだから自意識過剰な人は
    加藤治郎――日常の秩序が狂っていく
    松村正直――すこぶる現代的な、デジタル時代の歌

    「ゴニン デ イッシュ」とは
    | 第6回(逆) | 01:19 | - | - | - | - |