ゴニン デ イッシュ
http://tanka.yaginoki.com/
<br />
<br />
<br />
<br />
互いの読みを持ち寄ることで、<br />
歌の味わいが変わっていく(かも)。<br />
毎月ある短歌1首について5人が鑑賞文を書く、<br />
「山羊の木」の期間限定企画です。<br />
ja
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=846576
「ゴニン デ イッシュ」第6回(逆)
今月の5人
■宇都宮敦――孤絶の希求が連帯の希求に重なる
■岡本雅哉――これだから自意識過剰な人は
■荻原裕幸――社会が社会の視点を取り戻した
■加藤治郎――日常の秩序が狂っていく
■松村正直――すこぶる現代的な、デジタル時代の歌
★
最終回、第6回の短歌は、穂...
今月の5人
■宇都宮敦――孤絶の希求が連帯の希求に重なる
■岡本雅哉――これだから自意識過剰な人は
■荻原裕幸――社会が社会の視点を取り戻した
■加藤治郎――日常の秩序が狂っていく
■松村正直――すこぶる現代的な、デジタル時代の歌
★
最終回、第6回の短歌は、穂村弘「出ようとしては切りまくる買い換えた携帯電話のボタンが逆」(「短歌」2010年5月号)です。
今回お願いしたのは、非常に切れ味の鋭い論と作品で新しい短歌を拓く宇都宮敦さん、各種投稿サイトなどで活躍中、ご自身のブログで「ゴニン デ イッシュ」第1回からずっと併走し続けてくださった岡本雅哉さん、ニューウェーブ短歌・ネット短歌の長兄的存在(?)荻原裕幸さん、エネルギッシュに現代短歌の現在を担い続ける加藤治郎さん、「やさしい鮫日記」好評更新中、塔短歌会編集長の松村正直さん(50音順)です。
最近の穂村弘さんの短歌の面白さ/語り難さがぎゅぎゅっと詰まった回になりました。
「ゴニン デ イッシュ」は、今回で終了します。
ご参加くださった皆様、読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
この記事と、「ゴニン デ イッシュ」とはのみ、コメント・トラックバックできる設定になっています。ご意見、ご感想をお待ちしております。
★
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第6回(逆)
2010-07-25T01:38:26+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=846575
【第6回(逆)】宇都宮敦
「携帯電話を買い換えたら、通話ボタンと終話ボタンの位置が前の電話と逆なので、着信があったときに何度も押し間違えてしまう」ってことを詠んだ歌で、内容的にはそれ以上でもそれ以下でもないと思うけど、こう書き下すと「あるあるとほほネタ」的なニュアンスを含ん...
「携帯電話を買い換えたら、通話ボタンと終話ボタンの位置が前の電話と逆なので、着信があったときに何度も押し間違えてしまう」ってことを詠んだ歌で、内容的にはそれ以上でもそれ以下でもないと思うけど、こう書き下すと「あるあるとほほネタ」的なニュアンスを含んでしまって、それはちょっと待ってと言いたくなる。油断すると、あー、こういうことありそー、みたいに共感センサーが反応しそうになるが、そもそも、通話ボタンと終話ボタンが逆位置の携帯電話なんてあったっけ? や、僕がその手のデバイスに詳しくないだけで実際あるのかもしれないけれど、あったとしてもかなりの少数派だろう。なので、この歌の主人公は「あるある」な状況におかれているというよりも、むしろ、ありえない状況に放り込まれているといえるのではないか。
んー、放り込まれている、っていう悪夢的な感じもなんか違うか。だって、二句が「切“り”まくる」でしょ。否応なしの状況での、右往左往だったり、困惑だったり、(おおげさだけど)絶望だとしたら「切“れ”まくる」と受動態になるんじゃないかしら。
リズムの面でも、結句の6は、助詞や助動詞を補えばかんたんに7になるのに(例:ボタンが逆だ)、そうしないことで、やっぱり共感を阻んでいるし、この結句6音がかすむほどの二句2音欠落はそこに強い意志があるからだろう(たんに、不通状態のリズム的な見立てでしかないとしたら、この二回の字足らずはやりすぎだと思う)。
結局、僕が感じたことを端的に表せば、自覚的に間違え続けるために、きわめて人工的にありえない状況を(それが言いすぎなら、かんたんに回避できるはずの状況を)こしらえている歌、ということになります。
こう書いちゃうと、たんにマッチポンプでキレているだけの歌になってしまうが(実際、はじめ、ここで読むのをやめようかなと思ったりもしたが)、この二重の虚構性は、より深い孤絶を、もしくは、拒絶してさえも通じる奇跡的な連帯を希求するために生じているのだと思う。
僕の読みは、初句「出ようとしては」を字義通りとって、孤絶よりも連帯の希求のほうに重心を置きたい感じ。もっと言えば、孤絶の希求が連帯の希求に重なるようなどこかに向けて作られた歌なんじゃないかなあと思うのです。
★
宇都宮敦(うつのみや・あつし)
2000年3月、枡野浩一仮設ホームページのBBS「マスノ短歌教信者の部屋」に迷い込んだことがきっかけで短歌を作りはじめる。第4回歌葉新人賞次席。
ブログ「Waiting for Tuesday」http://air.ap.teacup.com/utsuno/
【第6回】他の4人を読む
■岡本雅哉――これだから自意識過剰な人は
■荻原裕幸――社会が社会の視点を取り戻した
■加藤治郎――日常の秩序が狂っていく
■松村正直――すこぶる現代的な、デジタル時代の歌
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第6回(逆)
2010-07-25T01:36:51+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=846573
【第6回(逆)】岡本雅哉
穂村弘の作品で、“動作”を詠んだ短歌としては、
次の一首が思い浮かんだ。
「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」
シンプルでありながら、魅力的な情景を詠った傑作だと思う。
しかし、今回のテーマとなった短歌は、ちょっとキャ...
穂村弘の作品で、“動作”を詠んだ短歌としては、
次の一首が思い浮かんだ。
「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」
シンプルでありながら、魅力的な情景を詠った傑作だと思う。
しかし、今回のテーマとなった短歌は、ちょっとキャラ間違えてない?
そう思うくらい、なんてことのない歌である。
“携帯電話を変えたあと、電話に出ようと思ったら、
「通話ボタン」と「終話ボタン」の位置が、
それまで使っていたものとは左右逆に付いていて、
そのたび「終話ボタン」を押して電話を切ってしまい、
あせるあまりボタンの位置を確認することも忘れ、
何度も何度も相手からの電話を切ってしまった。”
……で?
これはまさか、作者のエッセイでおなじみの、
“世界音痴な私”アピールですか……?
あ、そういうの僕、間に合ってるんですよね……。
こう見えてもけっこう、原田宗典とか好きで、
もうトホホ体験は食傷気味っていうか、
やっぱり穂村さんには「シンジケート」みたいな短歌を……。
いや、ちょっとまてよ。
携帯電話のボタンって、みんな一緒の位置じゃなかったっけ?
僕の経験上、機種変更しても、
「左は通話ボタン」、「右は終話ボタン」、
それは変わらなかったはず……。
業界基準で決まってたりするんじゃなかろうか……。
―“総務省総合通信基盤局電気通信事業部”に電話して聞いてみました。
結論から言えば、
国内で販売されている携帯電話の構造は、やはり。
「左が通話ボタン」、「右が終話ボタン」、
という形になっているそうです。
そうなると、
「買い換えた携帯電話のボタンが逆」、
この部分の意味がわからない。
……思い出した。
かつてきいた、作者の人柄についての噂。
なんでも、せっかくメガネをやめて、
コンタクトレンズを入れたのにも関わらず、
“あいだにメガネという壁を挟むことなしに、いきなり世界と向き合うなんて無理だ”、
なんてよくわからない言い訳をして、
コンタクトをした目の上から、
“レンズなしメガネ”をかけていたような男だという。
なんて、めんどくさい……。
だからきっとこの短歌は、
作者のそういう類の感受性が暴走した結果、
「最新の携帯だから、ボタンが逆になっているくらいの進化はしてるだろう」、
そう思い込んで逆のボタンを押しまくってしまった、
そんなところだろう。
とても、めんどくさい……。
そう自分を納得させていたところ、
先日、職場に営業に来た若いサラリーマンが、
打ち合わせの際、
傍らにいまをときめくiPhoneを置いた。
もしや、と思って聞いてみたところ、なんと。
iPhoneの「通話ボタン」と「終話ボタン」は、
通常の日本の携帯電話とは逆についているという。
通話ボタン、間違えなかった?と訊くと、
「やっぱり最初は切っちゃいましたね……」
そうか!
穂村氏はiPhoneに乗り換えたんだ。
それを遠回しに表現したのがこの短歌だったんだ。
素直にiPhone持ってますよ、といえばいいのに。
これだから自意識過剰な人は……。
ほんと、めんどくさい……。
でも、考えてみれば、
「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」
この歌も、一見かっこいいけど、
作者がこう思って、「決まった……フッ」、
なんて悦に入っているのを尻目に、
彼のパートナーは、
たんすにぐちゃぐちゃに入った彼の夏服の準備や、
「行こう」と言ったっきり手付かずの帰省旅行の計画や、
よく飲むくせに作者はつくらない麦茶のポットやティーバッグの準備など、
すべての夏をむかえる準備を一手に引き受けて、
てんてこまいなんじゃないか。
穂村弘。やっぱり、めんどくさい……だけど好きだ。
★
岡本雅哉(おかもと・まさや)
東京都生まれ。2005年、枡野浩一の「かんたん短歌blog」をきっかけに作歌を始める。主に「かんたん短歌blog」、「笹短歌ドットコム」、「かとちえの短歌教室シリーズ」等に投稿。企画『“Perfume”で付け句!(2008〜)』、『ロクニン デ イッショ♪(2009〜)』。単語帳風短歌集『Schoolgirl Trips(2009)』。
blog「なまじっか…」 http://furyu.way-nifty.com/namajikka/
Twitter ID @masayaokamoto
【第6回】他の4人を読む
■宇都宮敦――孤絶の希求が連帯の希求に重なる
■荻原裕幸――社会が社会の視点を取り戻した
■加藤治郎――日常の秩序が狂っていく
■松村正直――すこぶる現代的な、デジタル時代の歌
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第6回(逆)
2010-07-25T01:21:26+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=846574
【第6回(逆)】荻原裕幸
穂村弘の短歌の印象が大きく変化したと感じたのは、歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』をまとめる直前の頃だが、一人称を手紙魔の女性として設定するなど、方法的なファクターが表面を覆っていて、根本のところで何が変化したのか、まるで理解できないでい...
穂村弘の短歌の印象が大きく変化したと感じたのは、歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』をまとめる直前の頃だが、一人称を手紙魔の女性として設定するなど、方法的なファクターが表面を覆っていて、根本のところで何が変化したのか、まるで理解できないでいた。昨今の作品を読むと、その変化が何によるものなのか、少しづつあきらかになって来ているように思う。単純化して述べてしまうと、以前は、たとえば歌集『シンジケート』に見られるように、私の失敗、を絶対的に許容しつづける誰かの存在が感じられて、以後は、私の失敗、を無言で責め続ける誰かの存在が感じられるのだ。
この「携帯電話」の一首は、以前から変化のない、どこかちょっと不器用な一人称が描かれてはいるが、以前には見られた、誰か絶対的な許容者に支えられながらそれを笑いとばしてしまうだけの明るさがどこにもない。読者としても、読んでこの不器用さを笑うことに何かためらいが生じるのだ。それほど不器用ならもっと慎重に行動しろよ、とも思うのだが、これだけ単純な動作で失敗を繰り返す背景には、よほどの焦慮や緊張が渦巻いているのだと考えるのが妥当だろう。以前、不器用なのにスマートな行動に憧れるという印象だった一人称はここにはおらず、誰かに無言で失敗を責め続けられるがゆえ、不器用なのに完璧な行動を求める一人称の姿が浮かんで来る。行動の基準にあるものが、恋人の視点から社会の視点に変化したと言えば、そこに一人称の成長に類するものを見ることもできそうだが、一九八〇年代は、社会の視点が恋人の視点であって、現在は、社会が社会の視点を取り戻したのだと、そう理解しておいた方が的確な気はする。
★
荻原裕幸(おぎはら・ひろゆき)
1962年生まれ。名古屋在住。歌人。
ブログ http://ogihara.cocolog-nifty.com/
【第6回】他の4人を読む
■宇都宮敦――孤絶の希求が連帯の希求に重なる
■岡本雅哉――これだから自意識過剰な人は
■加藤治郎――日常の秩序が狂っていく
■松村正直――すこぶる現代的な、デジタル時代の歌
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第6回(逆)
2010-07-25T01:19:13+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=846572
【第6回(逆)】加藤治郎
電話がかかってくる。「切りまくる」というのだから、実際にはまず出るのだ。「出ようとしては」出て「切りまくる」ということである。意識が一部飛んでいるのだ。何回も電話がかかってくる。そして「切りまくる」。借金の催促でないとすれば、これは女性からの電話...
電話がかかってくる。「切りまくる」というのだから、実際にはまず出るのだ。「出ようとしては」出て「切りまくる」ということである。意識が一部飛んでいるのだ。何回も電話がかかってくる。そして「切りまくる」。借金の催促でないとすれば、これは女性からの電話である。女性からしつこく電話がかかってくるのだ。女性からの電話に男も参っている。だから意識が切迫して場面が飛ぶのである。携帯電話を買い換えたのも、電話番号を変えるためだ。それもすぐ突き止められた。怖ろしい。下句は、ボタンの配列が逆ということだ。123456…ではなく、789456…と並んでいる。日常の秩序が狂っていく様を象徴している。
句の構成は〈出ようとしては/切りまくる/買い換えた/携帯電話の/ボタンが逆〉で、7・5・5・8・6と読みたい。初句7音、下句の8音・6音は、?本邦雄調である。この歌の場合、いびつで不条理な感覚を反映している。
★
加藤治郎(かとう・じろう)
1959年、名古屋市生まれ。早稲田大学教育学部社会科卒業。現在、富士
ゼロックス株式会社ソリューション・サービス営業本部勤務。ブログは、
http://jiro31.cocolog-nifty.com/
【第6回】他の4人を読む
■宇都宮敦――孤絶の希求が連帯の希求に重なる
■岡本雅哉――これだから自意識過剰な人は
■荻原裕幸――社会が社会の視点を取り戻した
■松村正直――すこぶる現代的な、デジタル時代の歌
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第6回(逆)
2010-07-25T01:17:07+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=846568
【第6回(逆)】松村正直
新しく買った携帯電話の「通話」と「切断」のボタンが以前のものとは左右逆になっていて、電話に出ようと思ってボタンを押すたびに間違って電話を切ってしまう、という歌。確かに、携帯電話の「通話」「切断」のボタンはエレベーターの「開」「閉」のように紛らわし...
新しく買った携帯電話の「通話」と「切断」のボタンが以前のものとは左右逆になっていて、電話に出ようと思ってボタンを押すたびに間違って電話を切ってしまう、という歌。確かに、携帯電話の「通話」「切断」のボタンはエレベーターの「開」「閉」のように紛らわしい。
言葉の上では「切りまくる」の「まくる」がいいのだろう。電話を「掛けまくる」とはよく言うが「切りまくる」というのは珍しい。戯画的な表現ではあるけれど、作者の慌てている感じがよく出ていると思う。5・7・5・7・7の定型と7・5・5・8・6(出ようとしては/切りまくる/買い換えた/携帯電話の/ボタンが逆)の意味の切れ目とのギクシャクしたリズムや最後が「逆」でプツリと終っている所も、混乱と動揺を表すのに効果的だ。
でも、この一首だけであれば、取り立ててどうってことのない歌だろうと私は思う。
連作で読むと少し違ってくる。この歌より前に「黒電話」の歌が二首出てくるのだ。
僕んちに電話が来たぞつやつやのボディーに映る3つの笑顔
黒電話が家に来た日を思い出す 今朝シュレッダーが家に来た
そう言えば、昔の黒電話だったら受話器を「取る」「下ろす」の動作を間違えるはずもなかったよなぁ、と思う。懐かしい黒電話の歌を背景にして読むと、この携帯電話の歌はすこぶる現代的な、デジタル時代の歌という気がしてくる。そこが一番のポイントだろう。私たちは、こうしたボタンの位置などを、言わば無数に覚えていかなければ、うまく生きていくことができないのだ。
私の持っている携帯電話の「通話」「切断」のボタンには黒電話のマークが描いてある。それぞれ受話機が上った状態と下りている状態の絵だ。こんな絵だって、時代とともにいつか無くなっていくのだろう。(もう無くなっているのか?)
★
松村正直(まつむら・まさなお)
1970年東京生まれ。塔短歌会編集長。歌集に『駅へ』『やさしい鮫』。現在、初めての評論集を準備中。
HP 「鮫と猫の部屋」http://www.ac.auone-net.jp/~masanao/
ブログ「やさしい鮫日記」http://blogs.dion.ne.jp/matsutanka/
【第6回】他の4人を読む
■宇都宮敦――孤絶の希求が連帯の希求に重なる
■岡本雅哉――これだから自意識過剰な人は
■荻原裕幸――社会が社会の視点を取り戻した
■加藤治郎――日常の秩序が狂っていく
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第6回(逆)
2010-07-25T01:00:04+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=826877
「ゴニン デ イッシュ」第5回(2010年3月)
今月の5人
■今橋愛――わたしも冬の星を知っている。
■島なおみ――言葉の意味の連関を少しずつずらしてゆく喩法
■高柳克弘――ともに傷を負う存在としての共鳴
■山田航――つまらないものが、きらきら輝きを放ち始める
■吉川宏志――引き算のかたちで見えてくる「私」
...
今月の5人
■今橋愛――わたしも冬の星を知っている。
■島なおみ――言葉の意味の連関を少しずつずらしてゆく喩法
■高柳克弘――ともに傷を負う存在としての共鳴
■山田航――つまらないものが、きらきら輝きを放ち始める
■吉川宏志――引き算のかたちで見えてくる「私」
★
第5回の短歌は、笹井宏之「公務」(「歌壇」2009年2月号)から。笹井さんが亡くなってもう1年ですが、まだまだ語り合うことは残されています。
遺歌集も切に待たれますね。
今回お願いしたのは、[sai]、セクシャルイーティング、その他いろいろでお世話になっている大好きな今橋愛さん、短歌の世界に刺激的な話題を提供し続けている、短歌結社「弦」の島なおみさん、俳句結社「鷹」の編集長、昨年第一句集『未踏』を上梓された高柳克弘さん、昨年短歌研究評論賞と角川短歌賞をダブル受賞された山田航さん(次号から「pool」正式加入です!)、そして、美しい歌と誠実な論考で短歌界を牽引する吉川宏志さん(50音順)です。
★
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第5回(公務)
2010-03-07T15:19:38+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=826215
【第5回(公務)】今橋愛
公務員という言葉の意味がわからないので知人にあれこれ聞いた。
そうすると、現在のこの国における公務員の過酷な労働状況のことなどを知った。
わたしはそれをはっきりとは思い浮かべられなかった。そして、ああそうかと思った。
この作者も多分一緒だ。あるいは...
公務員という言葉の意味がわからないので知人にあれこれ聞いた。
そうすると、現在のこの国における公務員の過酷な労働状況のことなどを知った。
わたしはそれをはっきりとは思い浮かべられなかった。そして、ああそうかと思った。
この作者も多分一緒だ。あるいは、もっとぼんやりとしか結べないんじゃないのかなあって。
だから、このうたの公務\公務員は、例えば庭に生えているはっぱの一枚というくらい。それをむしって、おもしろがってふふふ、と笑っているそれであって、先ほどの公務員という意味やメッセージからは、かなり遠いそれと感じる。
そういうところからは大きく隔てられた場所が、この人の世界だったのでしょう。
むしろ、真冬の星の匂い。
この言葉にはこの人の実感がある気のする。
この人は佐賀の有田というところの人です。陶器の町。
この人は公務員というはっぱを ぴゃっとむしり、それをくしゃっとすると、そこからうつくしい冬の気配や空気とともに星の匂いがするのだと言う。いい詩だなあと思う。
わたしも冬の星を知っている。この人と同じ陶器の町の冬。
車をとめて空を見上げると、星が、目にすごく近くてきれいだったのを思い出せる。
空気は冴えている。耳には何の音もしない。もししていても聞こえていない。冴えている、どころではない。冴えきっている。そう、冴えきっていた─町はちがっても、陶器の町は。どこか似ている気のする。この人も よく似た冬の星を見ていたんだろうなと想像する。ずっと都会で暮らすひとには、つくれないうただなあと思ったりもする。
このうたを読み終えると、こころのどこかが浄化されているような気がする。
とうめいなあめ玉を、すうっと、なめ終えている感じ。
わたしならば、わたしの知る陶器の町の、ある冬を この一行で、もう体感しなおしている感じ。
歌壇2月号。ひとつ前にはこんなうたがある。
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
下句。だいたいの人は、こんなことは言わないらしい。だけど。なんだかなあ。この人の「法律を守ります」は「ほんとに」守るような気がしてくる。なんか。なんでか。
★
今橋愛(いまはし・あい)
1976年大阪市生まれ。
2002年北溟短歌賞受賞。歌集「O脚の膝」。
同人誌〔sai〕、未来短歌会に所属。ホームページhttp://www.aaaperson.jp/
【第5回】他の4人を読む
■島なおみ――言葉の意味の連関を少しずつずらしてゆく喩法
■高柳克弘――ともに傷を負う存在としての共鳴
■山田航――つまらないものが、きらきら輝きを放ち始める
■吉川宏志――引き算のかたちで見えてくる「私」
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第5回(公務)
2010-03-03T07:42:51+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=826214
【第5回(公務)】島なおみ
畑ではたわわに《公務員》が実っている。もぎ取ってジューサーにかける。搾り取ることができたのは、太陽の匂いあふれる果汁――ではなく、星の匂いのする《公務》であった。
冬に瞬く星の匂いは陰(ネガ)のイメージを帯びる。収穫と圧搾の作業も夜ひそやかに行われて...
畑ではたわわに《公務員》が実っている。もぎ取ってジューサーにかける。搾り取ることができたのは、太陽の匂いあふれる果汁――ではなく、星の匂いのする《公務》であった。
冬に瞬く星の匂いは陰(ネガ)のイメージを帯びる。収穫と圧搾の作業も夜ひそやかに行われているのだろう。
すでに《公務員》の姿はない。あとに残るのは搾り取られた《公務》だけだ。ほとんど無臭の冷えた星の匂いが動く。
†
「とれたて」「しぼりとる」は平仮名表記。舌足らずな少年の口調のようでもある。だが言葉の余分な意味の枝葉が刈り取られ、極端に抽象化されている。だから発話主体である作者自身の息づかいや体温は1首の中では薄まっている。
また、「人が去って星(のようなもの)が残る」というタルホ的世界観は、どこか懐かしく甘美だ。この甘さ懐かしさは短歌形式と親和性が高い。甘さに流れ過ぎた分「公務」などという固い言葉で踏みとどまっている。
格助詞「の」の繰り返しが韻律にバランスを与えている。特に下句の〈「名詞(2音)」+「の」+「名詞(3音)」+「の」+「名詞(3音)」+「の」+「名詞(3音)」=体言止め〉から生じるリズムは、一読、超現実的なテーマを音の安定感で支えてもいる。
「とれたて」「しぼりとる(果汁などを)」/「しぼりとる(血税などを)」「公務員」/「公務員」「公務」と、言葉の意味の連関を少しずつずらしてゆく喩法は、イメージの高次元への広がりを感じさせる。
作者・笹井宏之が語り手としての気配をうまく消したことも、超現実の風景を現前にあり得るべき風景のように提示するのに一役買っている。
甘い匂いの少年性と、清冽な凄みが共存する。作者の生涯を象徴するような1首と思われた。
★
島なおみ(しま・なおみ)
2007年より、歌の文芸誌「弦 GEN」の企画・編集を担当。
短歌ブログ http://absolutepitch.typepad.jp/
地元・富山市で、Epeeの会を運営しています。
【第5回】他の4人を読む
■今橋愛――わたしも冬の星を知っている。
■高柳克弘――ともに傷を負う存在としての共鳴
■山田航――つまらないものが、きらきら輝きを放ち始める
■吉川宏志――引き算のかたちで見えてくる「私」
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第5回(公務)
2010-03-03T07:42:18+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=826213
【第5回(公務)】高柳克弘
「公務員」とは、新聞の政治経済欄や、就職情報誌などで見かける呼称であり、およそ詩歌にふさわしいは言えない。さらに、「とれたて」「しぼりたる」といった用語も、テレビCMなどで繰り返し使われていることによって、すでに言葉として絶命寸前といってもいい。「と...
「公務員」とは、新聞の政治経済欄や、就職情報誌などで見かける呼称であり、およそ詩歌にふさわしいは言えない。さらに、「とれたて」「しぼりたる」といった用語も、テレビCMなどで繰り返し使われていることによって、すでに言葉として絶命寸前といってもいい。「とれたて」「しぼりたる」の語が「公務員」にかかっているところは、確かに一つの表現上の工夫ではあるが、ここまではミスマッチによる飄逸さはあるものの、立ち上ってくる詩情は認められない。だが、しぼりとられているものが、「真冬の星の匂いの公務」と言われると、冴え冴えとした冬の季節の実感がふいにまぎれこんでくる。この七七によって、「公務員」に掛かっていた「とれたて」「しぼりたる」の語が、「真冬の星」のみずみずしさの形容ともなり、鼻の奥をつんとさせる澄み切った夜空の「匂い」を伝えてくる。同時に、世俗に置いては、俗悪や怠惰の具現とされる「公務員」が、真冬の星にも似た孤独悲を持つ、一人の人間として捉えなおされることになる。
この歌は単純な比喩の歌と見るべきではない。「とれたての公務員」を、新人公務員の喩であると解釈したり、「しぼりとる」を労働による搾取だとみなしたりしてしまえば、この歌の味わいが台無しになってしまうだろう。一首を読み終えたとき、言葉の質感が、ふっと変化する、その微細な気息を味わえば足る歌だ。イメージ化すらも拒むところがあるが、仕事帰りに夜空を見上げている、肩をしぼめた背広姿のひとりの男の姿ぐらいは思い浮かべても、この歌の妙味は壊されないだろう。
散文の洪水の中で窒息寸前の言葉たちを救い出し、蘇生させる救命士のような役割が、詩人としての笹井に招命されているところではないか。
摂津幸彦の俳句に「物干しに美しき知事垂れてをり」がある。ともに、権威へ向けてアイロニカルな視線を投げかけているという言葉の志向に共通性がある。とはいえ、この句の背後にいる作者摂津がデモーニッシュに哄笑しているのに比して、掲出歌における笹井は、さびしげに微笑んでいるようだ。その相違が、俳句には存在しない七七に由来しているところが、俳句と短歌との本質的相違をも物語っているようで、興味深い。笹井の歌における、「公務員」という言葉の蘇生はそのまま、「公務員」というシステム化された存在そのものへの寄り添いにつながっていく。笹井の歌はしばしば「優しさ」と評されるが、単なる同情や共感による陳腐な「優しさ」などではない。ともに傷を負う存在としての共鳴が、笹井の歌にある切実さを与えている。それを現代性と呼んでもさしつかえないだろう。
★
?柳克弘(たかやなぎ・かつひろ)
俳人。一九八〇年、静岡県浜松市生まれ。俳句結社「鷹」編集長。句集に『未踏』(ふらんす堂)、著書に『凛然たる青春』(富士見書房)、『芭蕉の一句』(ふらんす堂)。ブログ http://sun.ap.teacup.com/katsuhiro/
【第5回】他の4人を読む
■今橋愛――わたしも冬の星を知っている。
■島なおみ――言葉の意味の連関を少しずつずらしてゆく喩法
■山田航――つまらないものが、きらきら輝きを放ち始める
■吉川宏志――引き算のかたちで見えてくる「私」
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第5回(公務)
2010-03-03T07:41:26+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=826212
【第5回(公務)】山田航
笹井宏之の短歌は非常に純度の高い詩的世界を形成しているが、その源泉は実は取り合わせの妙にある。いかにも詩的な言葉と、そうではない言葉を並列させることで逆に詩的純度を高めるという技巧が多用されている。
表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道...
笹井宏之の短歌は非常に純度の高い詩的世界を形成しているが、その源泉は実は取り合わせの妙にある。いかにも詩的な言葉と、そうではない言葉を並列させることで逆に詩的純度を高めるという技巧が多用されている。
表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん
この歌が典型ともいえるだろう。「水星軌道」が詩語であり、「〈さとなか歯科〉」や「やかん」は非‐詩語である。笹井の用いる非‐詩語にはいくつか特徴があり、日常的なものであること、事務的なものであること、純和風なものであることが挙げられる。
「公務員」「公務」というのはこの非‐詩語である。この言葉は一般に、身近ではあるもののお堅く事務的なイメージをまとっていると解釈できる。それが「とれたて」「しぼりとる」「真冬の星の匂い」といった詩語と組み合わされることでほのかなおかしみが生まれ、詩に奥行きが出る。どこにでもある平凡なもの、つまらないものという属性を抱えたモチーフが、異世界に移し変えられるだけできらきら輝きを放ち始める。そしてその輝きが生まれる一瞬の境界に大きく寄与しているものがほのかな笑いであるというところに笹井式二物衝突の重心があるのだ。
「公務員」という語からは、色彩的にはくすんだねずみ色のような暗いイメージがある。一方「とれたて」「しぼりとる」からは新鮮な果実のイメージが、「真冬の星」からは降り積もった雪の純白のイメージが立ち現われてくる。そしてそこに生ずるのはグラデーションではなく、ビビッドなイメージのぶつかり合いなのである。笹井の歌は全体としては淡い世界観を形作っているように見えるが、その内部にはモチーフ同士の激しい衝突がある。それは笹井自身の心の内部で繰り返され続けている、他者には決して伝わりようのない衝突なのである。美しいと思うものだけを取捨選択して自分の世界に取り入れることができない。美しいものもつまらないものもみないっしょくたになって思い思いに飛び交いぶつかり合っている世界。それを心に持ち続けることは、尋常ならざる苦痛であったと思う。そしてその苦痛がどうしても外部に伝わらず、ぼやけた淡い世界として表出してしまう。その苦しみが、「真冬の星」の寒々しさと、ルーティンワークのような「公務」とを引き合わせてしまったのだろう。
★
山田航(やまだ・わたる)
1983年生まれ。「かばん」所属。2009年、現代短歌評論賞および角川短歌賞受賞。将来の野望は就職。
ブログ「トナカイ語研究日誌」http://d.hatena.ne.jp/yamawata/
【第5回】他の4人を読む
■今橋愛――わたしも冬の星を知っている。
■島なおみ――言葉の意味の連関を少しずつずらしてゆく喩法
■高柳克弘――ともに傷を負う存在としての共鳴
■吉川宏志――引き算のかたちで見えてくる「私」
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第5回(公務)
2010-03-03T07:23:52+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=826210
【第5回(公務)】吉川宏志
「とれたての」「しぼりとる」という表現から、「公務員」をレモンのような果実にたとえていることがわかる。みずみずしいものが、圧力を加えられているイメージである。誰がしぼりとっているのかはわからない。作者である〈私〉がしぼりとっていると取れないことも...
「とれたての」「しぼりとる」という表現から、「公務員」をレモンのような果実にたとえていることがわかる。みずみずしいものが、圧力を加えられているイメージである。誰がしぼりとっているのかはわからない。作者である〈私〉がしぼりとっていると取れないこともないが、歌の内容からすると、力をもった別の存在が主語であるような気がする(神のようなものを想定してもいい)。
「真冬の星の匂いの公務」も難解だが、秩序を守る仕事の冷たい美しさを表現しているのだと受け取っておきたい。緻密で正確な印象がある。
公務員から、「公務」を取ってしまえば、搾りかすのような「私」の領域が残る。引き算のかたちで見えてくる「私」を表現しようとした歌なのではないか。たとえば、燦然としていた官僚が、役職を失うと、みすぼらしい存在に変わってしまうことがある。公的な立場を奪われると、人間は非常に脆弱なものになってしまう。「公務」というものが、実は人間を生かしているのだともいえる。そのような公私の関係に、作者は関心を抱いていたのではなかろうか。
ここまでは読める。だが、歌の評価となるとまた別である。
さまざまなイメージがパズルのように組み合わされている感じで、一首としての迫力には乏しいと、私は思う。さまざまな読みは出るだろう。ただ、謎解きをするだけで終わってしまう歌なのではないか。「公務員」や「真冬の星」といった言葉が、記号的に用いられていて、表層的な感じがするのである。
もちろんすべての言葉は〈記号〉なのだけれど、優れた歌では、どこか記号以上のなまなましい感触を、言葉が帯びることはあるわけである。けれどもこの歌はそこまでは達していない気がする。
「公務」七首の中では、「自衛隊員のひとりが海であることをあなたにささやいて去る」を、私は秀歌だと感じる。「じえいたい/いんのひとりが/うみである/ことをあなたに/ささやいてさる」という句またがりのリズムが、おのずから不穏なものや危ういものを読者に伝えてくる。歌のなまなましさはこうして生まれる。
★
吉川宏志(よしかわ・ひろし)
1969年、宮崎県生まれ。「塔」選者。歌集に『青蝉』『西行の肺』など。評論集に『風景と実感』、『対峙と対話』(大辻隆弘との共著)がある。青磁社のHPに、ときどきブログを書いています。
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/
【第5回】他の4人を読む
■今橋愛――わたしも冬の星を知っている。
■島なおみ――言葉の意味の連関を少しずつずらしてゆく喩法
■高柳克弘――ともに傷を負う存在としての共鳴
■山田航――つまらないものが、きらきら輝きを放ち始める
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第5回(公務)
2010-03-03T07:16:30+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=817581
「ゴニン デ イッシュ」第4回(2010年1月)
今月の5人
■高島裕――この時代を生き抜こうとする意志
■谷村はるか――罪もまた賜わり物
■東郷雄二――馬場が引き受けようとしている宿命とは
■服部真里子――少女は息をのみ、うなずく
■虫武一俊――月も闇をそばに抱えている
★
またまた更新が遅くなってしまいま...
今月の5人
■高島裕――この時代を生き抜こうとする意志
■谷村はるか――罪もまた賜わり物
■東郷雄二――馬場が引き受けようとしている宿命とは
■服部真里子――少女は息をのみ、うなずく
■虫武一俊――月も闇をそばに抱えている
★
またまた更新が遅くなってしまいました。第4回の短歌は、馬場あき子『桜花伝承』から。これまでの歌とは別の意味で「ムズカシイ」一首かもしれませんが、5人の方の鑑賞文で、その魅力が読み解かれていきます。
今回お願いしたのは、富山から静謐な個人誌「文机」を発信、[sai]の同人でもある高島裕さん、昨年出版された歌集『ドームの骨の隙間の空に』が話題の谷村はるかさん、ハイクオリティな短歌評でお馴染みの東郷雄二先生、俊英揃いの早稲田短歌会の中でもひときわ個性の光る服部真里子さん、各種投稿欄で活躍中、やさぐれポップな作風が魅力の虫武一俊さん(50音順)です。
★
■「ゴニン デ イッシュ」とは
★
関連ページ
■東郷雄二さん「橄欖追放」短歌における読みについて
■岡本雅哉さん「ロクニン デ イッショ♪」第4回
]]>
第4回(罪)
2010-01-11T04:51:54+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=817590
【第4回(罪)】高島裕
一読、古典和款を踏まえているのがわかる。和泉式部の「冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」「中空にひとり有明の月を見て残る限なく身をぞ知りぬる」などがすぐに思い浮かぶ。夜の闇の高みにひときわ明るく、美しく浮かぶ光体は、人の心の暗部、...
一読、古典和款を踏まえているのがわかる。和泉式部の「冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」「中空にひとり有明の月を見て残る限なく身をぞ知りぬる」などがすぐに思い浮かぶ。夜の闇の高みにひときわ明るく、美しく浮かぶ光体は、人の心の暗部、人間存在の抱えるどうしようもない罪業を照らし出し、人にその自覚を促すものと思念され、和歌の宇宙に位置づけられた。その伝統的位置づけは、現在のポップミュージックの歌詞にまで継承されている。
この一首の見どころは、月についてのこうした伝統的位置づけを踏まえつつ、それを逆の視点から捉え返している点である。月は罪を得た身が眺めてこそ真に美しい。残念ながら非力な私は未だ大した罪を犯しておらず、月の真の美しさを知らない。
こういう逆説的な見方は、古典和歌の時代に比して、現代がどうしようもなく卑小な時代であることへの嘆きを秘めている。が、同時に、若々しい息づかいを感じさせる二句切れのリズムや、硬質な詞が続くのに耐えかねたように結句に溢れ出した口語的な「いる」などからは、今のこの時代を生き抜こうとする力強い意志と希望が感じ取れる。
古典和歌の美的宇宙を軸としつつ、そこから今を生きる自分を見つめ、問い返している。硬質な詞を用いているにもかかわらず、みずみずしい感触が心に残る歌である。
*
高島裕(たかしま・ゆたか)
個人誌「文机」を発行。歌集『薄明薄暮集』『高島裕集』ほか。
【第4回】他の4人を読む
■谷村はるか――罪もまた賜わり物
■東郷雄二――馬場が引き受けようとしている宿命とは
■服部真里子――少女は息をのみ、うなずく
■虫武一俊――月も闇をそばに抱えている
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第4回(罪)
2010-01-11T04:07:43+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=817587
【第4回(罪)】谷村はるか
ポイントのひとつは「得て」。
〈罪を「得た」者だけが、この月を見る資格がある。見ればぞくりとするような強い光、昼の世界とはまったく別の世界を現出させている、この月。罪を犯さない、犯せない私にはこの月を見る資格はない。月に背を向けて闇を抱くだけだ。...
ポイントのひとつは「得て」。
〈罪を「得た」者だけが、この月を見る資格がある。見ればぞくりとするような強い光、昼の世界とはまったく別の世界を現出させている、この月。罪を犯さない、犯せない私にはこの月を見る資格はない。月に背を向けて闇を抱くだけだ。〉
「得る」には普通、利益を得るとか、愛情を得るとか、よいものが幸運によってもたらされるというニュアンスがある。罪もまたそのようなものだと歌は言う。「罪得て」には、悪人だけでなく、やむにやまれず罪と呼ばれる行為をなさざるを得ない状況に追い込まれた者をも含んでいる感じがあり、それもまた賜り物なのだと言うようである。
「犯さざる非力の腕」を、散文的に「かよわい善人の私」とナルシシズムに解釈すべきでない。一首にはあこがれが満ちている。そしてもうひとつのポイントは結句の「闇よせている」。もし「闇よせており」と文語で結べば(この歌集は新かなですね)、歌の形(かた)はもっと決まったかもしれない。しかし、末尾にきてふと口を漏れてしまった現代語でのつぶやきは、隠していたほんとうのこころね、あこがれる側の気弱さがほころびから覗いたという風で、すこし悲しく、魅力的だ。
★
谷村はるか(たにむら・はるか)
歌集『ドームの骨の隙間の空に』。「短歌人」「Es」同人。
【第4回】他の4人を読む
■高島裕――この時代を生き抜こうとする意志
■東郷雄二――馬場が引き受けようとしている宿命とは
■服部真里子――少女は息をのみ、うなずく
■虫武一俊――月も闇をそばに抱えている
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第4回(罪)
2010-01-11T03:38:33+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=817586
【第4回(罪)】東郷雄二
歌は一首の屹立をめざすべしとの立場に立てば、一首の読みは同じ作者の他の歌や作者の境涯とは独立してなされるべきだろう。今仮にその立場で読むとすると、この歌は上二句と下三句に分かれる。上句の「罪得てぞ月は見るべし」は、古事談の「あはれ、罪なくして配所...
歌は一首の屹立をめざすべしとの立場に立てば、一首の読みは同じ作者の他の歌や作者の境涯とは独立してなされるべきだろう。今仮にその立場で読むとすると、この歌は上二句と下三句に分かれる。上句の「罪得てぞ月は見るべし」は、古事談の「あはれ、罪なくして配所の月を見ばや」や、徒然草の「配所の月、罪なくて見ん事」をただちに思い出させる。「配所の月」は古典的テーマであり、罪もないのに配流の憂き目に遭い、侘びしく月を眺めるあはれを意味するが、馬場はこれを逆転して、そのような境遇でこそ月は見るべきだと言う。罪を得てこそ月の光は冴える。そこに宿命を引き受けようとする作者の強い決意が感じられる。
上句の決然とした言挙げとは対照的に、下句の歌意は取りにくい。「犯さざる非力の腕」は自分の非力を嘆いているのだが、何に対する非力かは明らかでない。また結句の「闇よせている」は文語を基調とする馬場には珍しく口語で、「寄せる」には「波が寄せる」の自動詞用法と、「白波が玉藻を寄せる」の他動詞用法とがあり、これも判然としない。しかしここは自動詞と取り、「闇が非力の腕に寄せている」と解釈すべきだろう。この闇は単なる夜の暗さではなく、自らの非力を痛感する心情と呼応する心の闇でもあることは言を俟たない。
馬場はいかなる宿命を引き受けようとしているのか、また何に対する非力か。この解釈は一首に課した枠をはみ出す。この歌は馬場の第五歌集『桜花伝承』(1977年)収録の「ばさら絵」連作中の一首である。同歌集には、「五蘊皆空さあれ飢えあるきさらぎや見えざる餓鬼の群れにわが居る」や、「川の辺に臥して思えば身のつよき思想ならずや野たれ死にとは」といった強い思いを吐露した歌が多くある。あとがきで馬場は、戦争に押しつぶされた青春の中で桜への複雑な思いが生まれたと語っている。ならば馬場が引き受けようとしている宿命とは、戦火にまみれた過去の青春であり、また選び取った風狂の道の果てにある野垂れ死という恩寵であろう。「罪得てぞ月は見るべし」という断定は、このような強い決意から発したものだと思われるのである。スーパーフラットと化した現代においては、すでに望むべくもない古譚の観すらある。
★
東郷雄二(とうごう・ゆうじ)
本業は意味論や談話理論を研究する京都在住の言語学者。自身のホームページで2003年4月から2007年4月まで「今週の短歌」で短歌評を書き、2008年4月から「橄欖追放」として再開。
「今週の短歌」http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka.html
「橄欖追放」http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/kanran.html
【第4回】他の4人を読む
■高島裕――この時代を生き抜こうとする意志
■谷村はるか――罪もまた賜わり物
■服部真里子――少女は息をのみ、うなずく
■虫武一俊――月も闇をそばに抱えている
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第4回(罪)
2010-01-11T03:26:04+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=817583
【第4回(罪)】服部真里子
「あはれ罪なくて配所の月を見ばや」──罪を犯さずして、配流の地の月を見たいものだ、と語った男がいた。人里の喧騒から遠く離れて、ひそやかに月と正対する時間を持ってみたかったのだろう。なるほど、確かに月には、人の魂を研ぎ澄ませる何かがある。なにひとつ恥じ...
「あはれ罪なくて配所の月を見ばや」──罪を犯さずして、配流の地の月を見たいものだ、と語った男がいた。人里の喧騒から遠く離れて、ひそやかに月と正対する時間を持ってみたかったのだろう。なるほど、確かに月には、人の魂を研ぎ澄ませる何かがある。なにひとつ恥じるところのない、清冽な心もちで見上げたなら、その光はどれほど美しいことだろう。
しかし──違う、とこの歌は言うのである。
それは、月の真の美しさではないと。月というものは、罪を得てこそ見るべきだと言うのである。
白日の下では身をひそめ、闇の中にのみ姿を現す天体の艶冶な美しさは、罪を犯したことのない者にはわからない。心のどこかに枷をつけた者だけが、その翳りある美貌を感じとることができるのだ。
「犯さざる非力の腕」は、少女のものだろうか。その幼さと非力さゆえに、彼女はまだ汚れを知らない。ただ、世界の不思議さへの憧れをいっぱいに湛えた目で、夜空に懸かる月を見ている。仄青い光に触れてみたくて、そっと両腕をさしのべる。
その腕に、ひたりと寄り添ってくる闇がある。君はまだ月の真の美しさを知らない、知りたくはないのかい、と誘いかけるように。少女は息をのみ、目を見開いて、ひとつ大きくうなずくだろう。そして彼女は、月を仰ぐにふさわしい女性となるのである。
★
服部真里子(はっとり・まりこ)
1987年横浜生まれ。町・早稲田短歌会所属。歌歴4年目。
【第4回】他の4人を読む
■高島裕――この時代を生き抜こうとする意志
■谷村はるか――罪もまた賜わり物
■東郷雄二――馬場が引き受けようとしている宿命とは
■虫武一俊――月も闇をそばに抱えている
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第4回(罪)
2010-01-11T03:04:21+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=817582
【第4回(罪)】虫武一俊
この歌のポイントは、「腕」はどっちのものか? というところにあると思います。月を見ている歌の主人公か、月そのもののものか。
今回、私は『「腕」は月のもの』という側に立って読みました。決め手になったのは、月と闇の関係の深さです。
私は高校生のとき...
この歌のポイントは、「腕」はどっちのものか? というところにあると思います。月を見ている歌の主人公か、月そのもののものか。
今回、私は『「腕」は月のもの』という側に立って読みました。決め手になったのは、月と闇の関係の深さです。
私は高校生のとき、いつも星を見ながら家に帰っていたのですが、星を見る癖のある人間にとって月は邪魔な存在です。明るすぎて、まわりの星を消してしまうからです。
星の消えた空間は、文字通りなにもない暗闇です。つまり、「完璧な闇」になっています。
いまでこそ文明の発達により街灯やネオンなどからによる似たような闇がありますが、世界のどこにいても、どこからでも見ることができる「闇」は月のまわりのものだけです。そして文明以前、人類以前からあったものも、また月だけ。月のまわりの「闇」は、地球の夜空に最初に出来た「完璧な闇」と言えます。
月と闇は、地球においてほとんど同じ時間を過ごしてきているわけです。十分に、関係の深いものと言えるのではないでしょうか。
罪、闇、と単語を並べられると、やはりそのふたつを関連づけて考えてしまいます。
月は生まれたときから、そこにいるというだけで、闇をよせてしまっている。しかも地球の夜空において、最初に完璧な闇をよせたものとして。宿命、と言えるかもしれません。なにかを傷つけようとしているわけではないのに、腕の内側、ふところに闇はよせられ、入りこんでしまう。
ただ生きてきただけだったのに、どうしようもなく罪を得てしまった。自分じゃない、と叫びたくても、自分以外のほかの誰にも渡りえないようなものを。
そうした立場になってしまったとき、ふと夜空を見上げてみると、月も闇をそばに抱えている。なのにまったく堂々としていて、夜空にまぶしく輝いている。
おそらくこの歌の主人公は、そんな月の姿に励まされたことがあるのではないでしょうか。
月の明るい夜が、これからはいままでと違って見えてきそうです。
★
虫武一俊(むしたけ・かずとし)
1981年生まれ。大阪府に育ち、現在も在住。2008年に短歌を始める。
http://blog.livedoor.jp/kitakawachi/
【第4回】他の4人を読む
■高島裕――この時代を生き抜こうとする意志
■谷村はるか――罪もまた賜わり物
■東郷雄二――馬場が引き受けようとしている宿命とは
■服部真里子――少女は息をのみ、うなずく
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第4回(罪)
2010-01-11T02:55:51+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=804867
「ゴニン デ イッシュ」第3回(2009年11月)
今月の5人
■奥田亡羊――分かち書きゆえに可能となる表現
■小島なお――夢と現実の狭間を漂う
■佐藤通雅――これはプロポーズの歌だ
■永井祐――わたしはみずなと親しくない
■錦見映理子――どこにもない、どうしても必要なもの
★
第3回の短歌は、今橋愛『O脚の膝』...
今月の5人
■奥田亡羊――分かち書きゆえに可能となる表現
■小島なお――夢と現実の狭間を漂う
■佐藤通雅――これはプロポーズの歌だ
■永井祐――わたしはみずなと親しくない
■錦見映理子――どこにもない、どうしても必要なもの
★
第3回の短歌は、今橋愛『O脚の膝』から、私の好きなこの1首を。歌の性格上いろいろな読みが出てくるだろうとは思っていましたが、歌の解釈、リズム感、鑑賞文の文体など、あらゆる面で、予想を上回るほどバラエティに富んだ5人が揃いました。
今回お願いしたのは、論作共に活躍中、私とは深夜の工場地帯を散歩した仲(?)でもある奥田亡羊さん、角川短歌賞を最年少受賞、歌集『乱反射』も記憶に新しい小島なおさん、ハイクオリティな個人誌「路上」を発行し続けていらっしゃる佐藤通雅さん、学生時代からの友だちで、最近は口語短歌の鍵を握ると言われたり言われなかったりしている永井祐さん、そして、静謐なエロス漂う短歌が魅力の錦見映理子さん(50音順)です。
★
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第3回(みずな)
2009-11-09T06:02:40+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=804889
【第3回(みずな)】奥田亡羊
まず、作品を一行に書き直してみたい。そうすることで、いろいろなことが見えてくるからだ。斜線は句の切れ目である。
「水菜買いに/きた」三時間/高速を/とばしてこのへやに/みずなかいに。
〈「水菜買いにきた」三時間高速を〉の部分が上句。初句が...
まず、作品を一行に書き直してみたい。そうすることで、いろいろなことが見えてくるからだ。斜線は句の切れ目である。
「水菜買いに/きた」三時間/高速を/とばしてこのへやに/みずなかいに。
〈「水菜買いにきた」三時間高速を〉の部分が上句。初句が字余りである以外はきっちり定型に収まっている。〈とばしてこのへやにみずなかいに。〉は助詞の「に」で二つの句に分けられる。四句が九音、結句が六音の破調となるが、句と句のバランスは悪くない。全体では三十三音。思いのほか定型を意識した作品といえる。
表記を見ると上句は漢字が多く、下句はすべて平仮名だ。また初句と結句は同じ言葉を繰り返している。上句と下句とを対比させて、そのニュアンスの違いを読ませるのが、この作品のねらいと考えてよいだろう。
では、本来の四行表記に戻ろう。
鍵括弧で括られている最初の「水菜買いにきた」は誰か他者に向けられた言葉だ。この唐突さと、初句の字余りのボリュームを抱えたまま次へとなだれこんでゆく勢いが、ある切迫した心理状態を伝えている。ところが歌のリズムは二行目の〈とばしてこのへやに〉で転調する。平仮名表記や三、四行目の改行が歌の勢いにブレーキを踏み、自らの意識へ沈潜してゆくような、訥々とした感じを生んでいる。後半は語りかける他者をなくしたモノローグなのだ。
表現上のもっとも大きな特徴は見ての通りの“分かち書き”である。とくに結句の改行は歌のリズムを決定して重要だ。また、助詞の使い方にも特徴がある。二回繰り返される「水菜買いに」の「を」の省略は作中主体の口調を強く印象づける。さらに二行目と四行目の「に」の重なりは破調への重石としてうまく機能している。いずれも一行表記ではキズになりかねない部分だ。作者は分かち書きの効果と、分かち書きゆえに可能となる表現をよく心得ているのだろう。
内容については、これがどんな場面なのか、「水菜」が何かの比喩なのかを知りたいところだが、いくら考えても答は出ないのかもしれない。たとえば「このへや」の「この」という指示語は、他ではない一つの部屋を指しながら、それがどのような場所なのかを語ろうとはしない。ヘンゼルとグレーテルのパンの道しるべのようなものだ。何らかの現実から詠み起こされたとしても、そこに戻る道はもう失われている。私たちはこの歌に残された悲しみだけを受け取ればよいのだ。
★
奥田亡羊(おくだ・ぼうよう)
1967年、京都生まれ。「心の花」会員。2005年、第48回短歌研究新人賞受賞。
2008年、第一歌集『亡羊』で第52回現代歌人協会賞受賞。
【第3回】他の4人を読む
■小島なお――夢と現実の狭間を漂う
■佐藤通雅――これはプロポーズの歌だ
■永井祐――わたしはみずなと親しくない
■錦見映理子――どこにもない、どうしても必要なもの
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第3回(みずな)
2009-11-09T05:48:07+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=804875
【第3回(みずな)】小島なお
正直に言うと、よくわからない。三時間も高速を飛ばして水菜を買いに……?しかもこの部屋に……?近くのスーパーの水菜ではいけなかったのだろうか。部屋で水菜を売っている状況とはどのような状況なのだろう。
理解しようと悩めば悩むほど、謎は深まるばかりであ...
正直に言うと、よくわからない。三時間も高速を飛ばして水菜を買いに……?しかもこの部屋に……?近くのスーパーの水菜ではいけなかったのだろうか。部屋で水菜を売っている状況とはどのような状況なのだろう。
理解しようと悩めば悩むほど、謎は深まるばかりである。そこではっとひらめく。本当は意味などないのではないか。内容以外の部分に、作者のメッセージが込められているのではないか。
では一体どこからそのメッセージを読み取ったら良いのだろう。そこでまたはっとひらめく。よく見ると上の句から下の句にかけて、どんどんひらがなになっている。それはまるで、夢のなかにいるような曖昧でいまにも消えていきそうな印象だ。そして「かいに。」という半端な終わり方がいっそうその印象を強くしている。
この短歌の魅力はここにあるのではないか。謎めいたことばを漢字からひらがなに変化させていくことで、夢と現実の狭間を漂っているようで、楽しいわけでもないが決して悲しいわけでもない、微妙な気持ちを表現しているのではないか。
以上が私の勝手な憶測である。今度、今橋さんにお会いする機会があればぜひこの短歌について伺いたい。今から楽しみである。
★
小島なお(こじま・なお)
1986年東京生まれ。93年から94年在米。2004年青山学院高等部在学中に角川短歌賞受賞。
2007年コスモス入会。同年歌集『乱反射』刊行。現代短歌新人賞、梅花文学賞受賞。
2009年青山学院大学卒業。現在、会社員。
【第3回】他の4人を読む
■奥田亡羊――分かち書きゆえに可能となる表現
■佐藤通雅――これはプロポーズの歌だ
■永井祐――わたしはみずなと親しくない
■錦見映理子――どこにもない、どうしても必要なもの
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第3回(みずな)
2009-11-09T04:21:27+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=804873
【第3回(みずな)】佐藤通雅
水菜といえば、もちろん野菜だが、しかしもちろん野菜ではない。恋人の名前だ。そしてこれは、プロポーズの歌だ。
高速道で三時間なら、半端な距離ではない。ガソリン代も半端でない。ちょっとした意気込みがなければ、こうはできない。しかも目的は水菜の部犀...
水菜といえば、もちろん野菜だが、しかしもちろん野菜ではない。恋人の名前だ。そしてこれは、プロポーズの歌だ。
高速道で三時間なら、半端な距離ではない。ガソリン代も半端でない。ちょっとした意気込みがなければ、こうはできない。しかも目的は水菜の部犀を訪問すること。ただの訪問ではない。なんといったって会ったとたん抱きしめ、しめあげる、それから下半身におよぶ。しかし、それだけが目的なら、「水菜買いに」は「女買いに」と同じになってしまう。それ以上のことでなければ「三時間高速をとばして」は、意味がない。「オマエノマルゴトヲ、オレノモノニスルタメニキタ」が、ホントの意味だ。
それならそうと、はじめから素直に「イッショニナッテクレ」といえばいいものを、ひねくってしかいえない。「女買いに」のきわどさをギャグに反転させることなしには、表明できない。
「水菜買いにきた」と勢い込んで部屋に入つたものの、ちょっと気弱になり、「みずな/かいに。」とトーンを低める。水菜はどう反応するだろうか。「フーン」「キミ、ナニヤッテンノ」「ナニヨ、コンナジカンニ、三時間カケテ、 カエリナ」……。どれも、いい。
★
佐藤通雅(さとう・みちまさ)
1943年岩手県生まれ。個人誌「路上」を発行。歌集、歌論のほか、『新美南吉童話論』『詩人まど・みちお』『宮沢賢治東北砕石工場技師論』など児童文学分野の仕事も多い。
http://www.h4.dion.ne.Jp/~rojyo/
【第3回】他の4人を読む
■奥田亡羊――分かち書きゆえに可能となる表現
■小島なお――夢と現実の狭間を漂う
■永井祐――わたしはみずなと親しくない
■錦見映理子――どこにもない、どうしても必要なもの
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第3回(みずな)
2009-11-09T03:06:09+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=804870
【第3回(みずな)】永井祐
この歌をはじめて読んだときは水菜を知らなかった。それまでに鍋とかで何回も食べていただろうけれど、あれが水菜という名前のものだというのがよくわかっていなかった。ほんとは今でもあやしい。みずな買ってこいと言われたらスーパーでラベルを確認する。知ってる...
この歌をはじめて読んだときは水菜を知らなかった。それまでに鍋とかで何回も食べていただろうけれど、あれが水菜という名前のものだというのがよくわかっていなかった。ほんとは今でもあやしい。みずな買ってこいと言われたらスーパーでラベルを確認する。知ってるけど知らないみたいな領域があって、水菜はわたしの中でそのカテゴリーに入る。このカテゴリーの言葉を含む短歌を読むのはどきどきする。ネットで画像検索してもだめだ。わたしはみずなと親しくない。
歌の中の二人は水菜ともっと親しいのかなと思う。水菜に思い出があるのかな。この時にみずなが思い出になったのか。
歌の空間構成、ということを考える。この歌を読むとなめらかにカーブするライトアップされた高速道路と、ぽっかり浮かんだ四角い部屋が見える。高速道路はすごく上から見た絵で、部屋はどこだかわからないところに白っぽく存在している。高速道路を通って部屋に行くわけだけど、その間のことは書いていないから、部屋は真空の中に浮かんでいるみたいに見える。マンションの部屋とか、アパートの部屋とか建物もわからないし、どんな街にあるのかもわからないので、部屋はぽっかり浮かんでいる。その下というか少し位相の違うところに高速道路がカーブしている。ライトがきれいだ。
読むときは「みずな」の後にたっぷり溜めを作りながら読む。二行目をかなりつんのめり気味に来たので、ここで長く休止するだけの勢いが残っている。「かいに。」の後も頭の中で長めに休符を作って無音、というか音の余韻の後に終止する。改行と句読点がそういう読み方に導いてくれる。
ではこれから水菜を買いにいこうかなとは思わない。何年も前にだかテキストの中にだか、みずなをネタにして思い出を作っていたカップルがいたんだなとは思った。これからもしばらくわたしはみずなとは親しくならない。何年も後にはなる可能性がある。カップルに対してはいつまでも仲良くいて下さいねとか、この瞬間は永遠ですねとかはあんまり思わない。二人ともお元気でぐらいのことを思う。
★
永井祐(ながい・ゆう)
1981年生まれ。早稲田短歌会、ガルマン歌会、さまよえる歌人の会等に参加。
http://www.d2.dion.ne.jp/~famnagai/
【第3回】他の4人を読む
■奥田亡羊――分かち書きゆえに可能となる表現
■小島なお――夢と現実の狭間を漂う
■佐藤通雅――これはプロポーズの歌だ
■錦見映理子――どこにもない、どうしても必要なもの
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第3回(みずな)
2009-11-09T01:46:14+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=804869
【第3回(みずな)】錦見映理子
一人暮らしの女の子。夕食を作ろうとして、水菜が足りない、と車でスーパーに向かったはずだった。五分もかからない場所に行くはずだったのに、部屋を出て車に乗って、スーパーに着くまでの間に、心のなかで何事かが起こり、そのまま高速に乗り、三時間もかけて恋人の...
一人暮らしの女の子。夕食を作ろうとして、水菜が足りない、と車でスーパーに向かったはずだった。五分もかからない場所に行くはずだったのに、部屋を出て車に乗って、スーパーに着くまでの間に、心のなかで何事かが起こり、そのまま高速に乗り、三時間もかけて恋人の部屋まで来てしまった。そういう歌だと思う。
この歌は、息をはずませている感じがする。四行詩みたいな表記だが、これは短歌であるから、このようなリズムで読むだろう。
みずなかいに・きたさんじかん・こうそくを・とばしてこのへ・やにみずなかいに
(6・7・5・7・8と、ほぼ定型が守られている。二つの「字あまり」も過剰な精神状態を表すのに効果的)
この句切れに、行の分け目を/で挿入してみると、こんな風になる。
みずなかいに・きた/さんじかん・こうそくを・とばしてこのへ・やに/みずな/かいに。
音で読むリズムと表記の区切りが脳内で交わって、さらに歌は切れ切れになり、息がはあはあしている感じがするのだろう。
この部屋には水菜は売っていないだろう。欲しいものはここには無い。でもここには、水菜よりもっと欲しいものが、私のいのちを左右するような、本当に欲しいものが、あるかもしれない。そうあってほしい。
どこにもない、でもどうしても必要なもの。足りなくて、息が苦しい。それを探して、必死で息をはずませて、ここまで来た。その切実さに、強く胸を打たれる。
★
錦見映理子(にしきみ・えりこ)
未来短歌会所属。歌集『ガーデニア・ガーデン』
http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/
【第2回】他の4人を読む
■奥田亡羊――分かち書きゆえに可能となる表現
■小島なお――夢と現実の狭間を漂う
■佐藤通雅――これはプロポーズの歌だ
■永井祐――わたしはみずなと親しくない
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第3回(みずな)
2009-11-09T00:00:09+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=792037
「ゴニン デ イッシュ」第2回(2009年9月)
今月の5人
■生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
■奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
■田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
■辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
■本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える
★
...
今月の5人
■生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
■奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
■田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
■辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
■本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える
★
お待たせしました。第2回の短歌は、北原白秋の『雲母集』から。歌に漂うこの変な気配は何?そして大きなる手の持ち主って誰?と、疑問が一杯の1首です。5人の皆さんも、口々に「この歌は難しい〜」とおっしゃっていましたが、幻想から食の問題まで、それぞれの方の個性と立ち位置が明確に出た、ユニークな一首評が出揃いました。
今回お願いしたのは、同人誌[sai]の仲間であり、なんだかんだで月に3度くらいはお会いしている気がする、短歌を愛する兄貴分、生沼義朗さん。「コスモス」所属の大大先輩、ただごと歌といえばこの方、奥村晃作さん。「新首都の会」その他、多方面でお世話になりまくりの、えんじゅ組組長こと田中槐さん。「短歌サミット」首謀者にして先月第一歌集を出版されたばかりの辻井竜一さん。そして、歌集『すばらしい日々』など、どこかあやうくも凛とした短歌を作り続けていらっしゃる本田瑞穂さん(50音順)です。
★
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第2回(卵)
2009-09-23T22:05:56+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=792031
【第2回(卵)】生沼義朗
一読、幻視の歌であり、卵も大きな手も比喩のそれとして読んだ。
〈累卵の危うき〉などと言う通り、非常に不安定で危険な状態の喩にも使われる卵を、巨人が上からわしづかみにする。「上」も単に方向だけでなく、天や神に対する感覚が内包されている。しかも「...
一読、幻視の歌であり、卵も大きな手も比喩のそれとして読んだ。
〈累卵の危うき〉などと言う通り、非常に不安定で危険な状態の喩にも使われる卵を、巨人が上からわしづかみにする。「上」も単に方向だけでなく、天や神に対する感覚が内包されている。しかも「手があらはれて」だから、手が最初から存在するのではない。「大きなる手」が突然「あらはれ」るのである。得体の知れない恐怖や不安、さらに<負>が自分たちのいる場所に迫りつつあることの不気味さが「あらはれて」によくあらわれている。
根拠は「昼深し」の位置だ。語順から察するに、単に昼間に大きい手が鶏か何かの卵をつかんだという歌意ではあるまい。それなら「昼深し」が初句にあっても構わないことになってしまう。「昼深し」が三句にあることにより、「大きなる手」が「昼」にそれこそ深い影を落とす。むしろできた影が一首の眼目と読むべきだろう。
北原白秋の第二歌集『雲母集』巻頭近くにある「卵」三首一連の二首目。前の歌は〈煌々(くわうくわう)と光りて深き巣のなかは卵ばつかりつまりけるかも〉である。いずれも描かれた景色は一見明快で牧歌的と呼んでいいほどに明るいが、裏面には禍々しいまでに暗い予兆がべったりと貼りついている。そこに気づくとき、一枚の明るい風景は一気に陰画(ネガ)の様相を呈す。掲出歌の力であり、また短歌という器の底知れなさでもある。
さてその後、卵はどうなったか。割られたか、持ち去られたか、はたまたその場で丸呑みにされたか。いずれにせよ、夜までにはまだ多少の時間がある。その間、作品の時間と解釈はまだ読者の掌中にある。
★
生沼義朗(おいぬま・よしあき)
1975年、東京都新宿区生まれ。 93年、作歌開始。「短歌人」[sai]各同人。歌集『水は襤褸に』(第9回日本歌人クラブ新人賞)、共著『現代短歌最前線 新響十人』。活動状況は http://www.geocities.co.jp/oinumayoshiaki/ 参照のこと。
【第2回】他の4人を読む
■奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
■田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
■辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
■本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第2回(卵)
2009-09-23T21:53:07+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=792025
【第2回(卵)】奥村晃作
三句に挿入された「昼深し」が状況設定の役割を果たしている。昼が深い、昼が闌けている、と言うことで、暑い春の日か、夏の日の昼下がりの時間帯に作者はいつものように庭に降り、庭の一隅に設置してある鶏小屋に行き、小屋の巣の中に手を差し入れて、あるいは生みた...
三句に挿入された「昼深し」が状況設定の役割を果たしている。昼が深い、昼が闌けている、と言うことで、暑い春の日か、夏の日の昼下がりの時間帯に作者はいつものように庭に降り、庭の一隅に設置してある鶏小屋に行き、小屋の巣の中に手を差し入れて、あるいは生みたてでまだ温みのある卵を、手に掴み、握り、持ち去ろうとした、その時に湧き起こった思いを述べた歌であろう。
高瀬一誌なら、三句は不要とし、取り外したであろう。つまり、次のような形としたであろう。
大きなる手があらはれて上から卵をつかみけるかも
肝心な点、核心はこの形で十二分に表現されている。
表現欲求は手と卵の関わり合いの一点にある。
人間の大きな手が、上から、有無を言わせず、小さな卵を掴み取り、奪い取る。
鶏の立場に立てばじつに悲惨な光景である。卵はその瞬間に未来を封殺されたのである。
食とは、他の生命を頂くことであり、それによって自らの生命を養い、生き延びる。
生まれて来たものは生き抜く権利がある。正当な権利の行使が、他者の正当な権利を奪い取り、蹂躙する。この矛盾に心痛めた作者がその思いを表出した歌であろう。
生まれて生きる、根源の矛盾、食のテーマに真っ向から挑戦した作であるだろう。
★
奥村晃作(おくむら・こうさく)
長野県飯田市生まれ。73歳。「コスモス」の選者および編集委員。「棧橋」発行人。
趣味は囲碁とクラシックギター。
ホームページは閉鎖し、勧められてミクシィに加入(おくさん)。
【第2回】他の4人を読む
■生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
■田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
■辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
■本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第2回(卵)
2009-09-23T21:44:45+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=792016
【第2回(卵)】田中槐
実景として読むならば、たとえば鶏小屋で卵をつかむ人間の手を、鶏の立場(あるいは第三者として)見ているというような光景だろうか。
この歌の本歌取りかと思える歌がある。
あやふくも手が交差してふかきより毛ぶかき桃をつかみ出したり
...
実景として読むならば、たとえば鶏小屋で卵をつかむ人間の手を、鶏の立場(あるいは第三者として)見ているというような光景だろうか。
この歌の本歌取りかと思える歌がある。
あやふくも手が交差してふかきより毛ぶかき桃をつかみ出したり
(岡井隆)
こちらの歌のほうがより「現実的」であるような気がする。それは二つの手が交差して袋のなかなどにあった桃をつかみ出した、という場面が、「たとえば鶏小屋で」というような設定をしなくても実景として浮かぶからである。そしてその二つの手のうちひとつは、おそらく作者自身の手であることを読者に容易に信じさせる。つかみ出したのは「私」である。
ところが北原白秋の歌の「大きなる手」は作者の手ではない。「あらはれて」であるから、突如そこに出現した「手」である。さらに「上から」という視点が与えられることから、この光景を作者自身は少し離れたところから見ているような構図となる。見ている「私」なのである。
この歌が単なる実景ではなく、もっと抽象的なものを描こうとしていることはあきらかである。たとえば「大きなる手」は神の手であり、「卵」は人間という小さな存在である。この構図は魅力的だ。誰でも、大きなる手によってつかみ取られたい、と思っているからだ。
そしてそう考えてから岡井隆の歌を眺めなおすと、岡井隆の歌も実は単なる桃つかみ取りの歌ではなく見えてくる。「あやふくも」「交差して」「ふかきより」「毛ぶかき」などの語が喩として機能してくる。「私」の位置は違うが、まさに本歌取りと呼べる歌になっていることに気づく。
それにしても北原白秋のこの歌の謎は「昼深し」である。状況的にはもう少し幻想的な明け方や、混沌とした夕暮れ時のほうが似合う光景かもしれない。そこをあえて真昼間に設定したのはなぜなのだろう。この歌は白昼夢の歌ではないだろうか。北原白秋は、覚醒しながらこの幻想的な光景――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間――を見ているのだ。
★
田中槐(たなか・えんじゅ)
1960年静岡生れ。「未来」所属。年内に第三歌集を上梓予定。
個人ブログ「槐の塊魂 Ver.2」 http://ameblo.jp/katamaritamashii/
【第2回】他の4人を読む
■生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
■奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
■辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
■本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第2回(卵)
2009-09-23T21:24:43+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=792004
【第2回(卵)】辻井竜一
この企画の趣旨は、「どんな短歌でも読み方は人それぞれであるわけで、それを持ち寄ることにより変わっていく歌の味わいを楽しむ」的なことであると理解しております。ならば僕はさらにそれを楽しむべく、いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読み、感想を書い...
この企画の趣旨は、「どんな短歌でも読み方は人それぞれであるわけで、それを持ち寄ることにより変わっていく歌の味わいを楽しむ」的なことであると理解しております。ならば僕はさらにそれを楽しむべく、いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読み、感想を書いてみるという手法をとることにしました。字数が限られていますので、詳しい説明はいたしません。早速始めたいと思います。
※2009年7月9日、午後10時38分。自室にて。
この短歌を一読した際、非常に陳腐な表現ではありますが、僕は「ドキドキしました」。
「大きなる手」。常人の三倍はあろうかというほどの大きな手が、山積みにされた生卵の上に勢いよく振り下ろされる情景を想像してしまったためです。
無残にも卵はぐしゃぐしゃに割れ(勢いがよ過ぎたのです)、その手には生温かいどろどろとした液状の(以下略)。
※2009年7月10日午前7時20分。自室にて。
卵と言えばやはり生卵。そして生卵とは、誰かにぶつけるために存在するものであります。彼(あるいは彼女)は、誰に向けてこの「何らかの原因で小人にされてしまった僕にとっては」とてつもないほどの大きさに感じられる(僕の背丈のほぼ4倍あります)生卵を投げるつもりなのでしょうか。それはわかりません。そしてそれが上手く命中すればいいのにと僕が強く願っている理由もよくわかりません。夕暮れ時までにはまだ時間があります。馬鹿げたことほど、白昼堂々とやるべきでしょう。健闘を祈ります。
※2009年7月12日深夜。時刻不明。新宿歌舞伎町路上。泥酔状態で書かれたメモより(原文ママ)
ぶんごぶんご。。賞味きげんきれ見るだけたべれませんけどみてうつくしいです。るっくおんりー。○○○-×××(←※筆者注:何かの電話番号)4時いこうだめ。VODAFON
(終)
★
辻井竜一(つじいりゅういち)
1978年8月21日生 獅子座A型
2007年4月、歌人集団「かばん」入会
2009年6月、埼玉県川口市にて前代未聞のイベント「短歌サミット」を主催。
158名を動員。インターネットを中心に各方面に物議を醸し出す。
2009年夏、荻原裕幸さんプロデュースによる
第一歌集「ゆっくり、ゆっくり、歩いてきたはずだったのにね」発売。
HP
↓
http://www.geocities.jp/ryuichi782002/
【第2回】他の4人を読む
■生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
■奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
■田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
■本田瑞穂――「昼深し」が現実的な手触りを加える
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第2回(卵)
2009-09-23T21:12:09+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=791994
【第2回(卵)】本田瑞穂
はじめこの歌の眼目は、なんといっても「昼深し」だと思っていた。昼も爛けて、というようなニュアンスかと思うが、あたかも神の手が生まれる前の状態である卵をつかみにくるような絵も浮かぶ、運命論的な読みもできるこの歌の三句に「昼深し」があることによって、...
はじめこの歌の眼目は、なんといっても「昼深し」だと思っていた。昼も爛けて、というようなニュアンスかと思うが、あたかも神の手が生まれる前の状態である卵をつかみにくるような絵も浮かぶ、運命論的な読みもできるこの歌の三句に「昼深し」があることによって、少しカメラがひいてまわりの風景が目に入ってきて、いくらか現実的な手触りが加わるように思う。「深し」という言葉で、単純に卵をつかみにくる手が下りてくる動作が強調されるということもあるが、そこで逆に観念だけではない、実際の手とか卵とか、生きたものが存在するような奥行きができるのだと思った。そういうものが感じられてはじめて、『雲母集』のこの歌を含む冒頭の一連である「新生」、新しい人生や歌がはじまるといった意味に触れるように思う。
しかし『雲母集』を読むと、このすぐあとに二首も三句目に「昼深し」を使っている歌があるし、他にも中盤に一首、それから「昼ふかみ」という言葉もところどころでみることができる。とりたててこの一首のためだけに置かれた言葉というわけではないようだ。少し拍子抜けしたが。
正直に言うと、『桐の花』の中にある「昼の思」の文章がとても好きなので、自分がこの影響を受けて白秋の歌を読んでしまうところがある。
(前略)私達は時としてその繊細な平安調の詠嘆、乃至は純情の雅やかなる啜り泣き、若くは都鳥の哀怨調に同じ麗らかな心の共鳴を見出す事はある、而しなほ苦い近代の芸術にはまだその上に耐へがたいセンジュアルな日光の感触と渋い神経の瞬きとを必要とする。繍銀の昼の燻しを必要とする。
「昼の思」から引用した。この前にも魅力的な記述があって、その部分を読むと、夜や闇や様式のなかで艶をみせるものが、白昼にあるときにみせるある種の痛ましさのようなものが感じられるのであるが、それが「苦い近代の芸術にはまだその上に耐へがたいセンジュアルな日光の感触と渋い神経の瞬きとを必要とする」ということなのだと思う。この一首は大きな調べで「けるかも」でおさめられているが、「昼深し」の風景のなかにあることで成り立っているように感じた。
『雲母集』の歌は『桐の花』で完成したものを破壊しようとしたと白秋自身がのちに述べているし、この「昼深し」は、暮らした三崎の昼の記憶(実景)からくるものかもしれないけれど、やはりおなじひとりの歌人が作る歌である、どこかで通底しているのだろうと思いたくて、こんな風に読んでしまうのである。
★
本田瑞穂(ほんだ・みずほ)
歌人集団「かばん」所属。歌集に『すばらしい日々』。最近は編み物のことばかりのブログ「きっとどこかに集まる部屋が」http://bluejourney.jugem.jp
【第2回】他の4人を読む
■生沼義朗――禍々しいまでに暗い予兆
■奥村晃作――食のテーマに真っ向から挑戦した作
■田中槐――神によってひとつの卵が選ばれた瞬間
■辻井竜一――いくつかのシチュエーションにおいてこの歌を読むと
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第2回(卵)
2009-09-23T20:55:54+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=750420
「ゴニン デ イッシュ」第1回(2009年8月)
今月の5人
■我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
■石川美南――ほどほどの出会い
■川野里子――薬剤師の後ろ姿
■チェンジアッパー――おだやかな空気感
■松澤俊二――表現レベルでの執念
★
第1回の短歌は、吉川宏志さんの第1歌集『青蝉』巻頭の1首で...
今月の5人
■我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
■石川美南――ほどほどの出会い
■川野里子――薬剤師の後ろ姿
■チェンジアッパー――おだやかな空気感
■松澤俊二――表現レベルでの執念
★
第1回の短歌は、吉川宏志さんの第1歌集『青蝉』巻頭の1首です。さわやかな歌ですが、上の句は解釈が分かれるのでは?と思い、あえて選んでみました(結果は……5人の鑑賞文を読み比べてみてください)。
今回お願いしたのは、斉藤斎藤さんのそのつど誌「風通し」でご一緒して以来すっかりファンになってしまった我妻俊樹さん、『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』を上梓されたばかりの、尊敬する川野里子さん、毎日歌壇やNHK短歌へ投稿中、石川が注目する高校1年生歌人チェンジアッパーさん、同人誌「pool」の仲間で、近代短歌の研究者としても活躍する松澤俊二さん(50音順)。1回目なので、石川も参加させていただきました。
★
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第1回(あさがお)
2009-08-17T00:08:03+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=778965
【第1回(あさがお)】 我妻俊樹
まず目にとまるのは「あさがおが朝を」という小さなリフレインだ。
五と七の反復する音数から成り立つこの形式を、内側から短歌じしんが模倣するように語句を反復させる、それが短歌におけるリフレインの意味である。定型に納まることですでに短歌化しているは...
まず目にとまるのは「あさがおが朝を」という小さなリフレインだ。
五と七の反復する音数から成り立つこの形式を、内側から短歌じしんが模倣するように語句を反復させる、それが短歌におけるリフレインの意味である。定型に納まることですでに短歌化しているはずの言葉が、さらに短歌に近づこうと身をよじるかるい狂気の感覚がリフレインにはある。ここではさらに「あさがお」→「が朝を」というアナグラムまで伴うという執拗さによって狂気の感覚が強調されている。
また「あさがおが朝を選んで咲く」ことはひとつの発見だが、発見の呈示にあたり「朝を選んで咲く」と切り詰めて表現するところにかすかな圧縮感がみとめられる。
無数にある朝からこの朝を選ぶ、ということの表現としては一見舌足らず(一日の中で朝という時間を選ぶ意にもとれるため)だが、全体の文脈を踏まえることで事後的に意味が確定される。つまり言葉に意味が遅れてくることで生じるひろがり。定型がもたらす言葉の変形を、読み手のなかの定型意識が引き受けて回復しようとする、いわゆる圧縮から解凍への感覚。その過程(複数とれる意味からひとつに絞り込まれること)がまた「無数にある朝からこの朝を選ぶ」というここに語られている内容と相似を示すといった徹底ぶりもまた、この場が“短歌の狂気”に深く侵されている事実を裏づけるだろう。定型が言葉から正気を奪う、という短歌の本質のひとつがわずかな字数で露呈され、読み手の脳と舌の中間あたりを刺激してくる。
だが続く「ほどの」で直喩に回収されることによって、ここまでに見たものはすべてひとつの括弧にくくられてしまう。
下句では作中主体の人生が前景化してくる。“短歌の狂気”は一転して修辞の位置に貶められ人生へと差し出されている。一首の主役となるのはしかし、狂気ではむろんないばかりか前景化した作中主体の人生のほうでもない。ここで何より印象的なのは上下句の危ういバランスに軋みをたてる「ほどの」の演じるアクロバットであり、いいかえれば「ほどの」をここに置くことのできる存在、一首の言葉を操作し演出する作者の隠しきれぬ才気こそが真の主役だったことがあきらかになるだろう。
★
我妻俊樹(あがつま・としき)
1968年横浜市生まれ。2002年頃から作歌。所属なし。http://blog.goo.ne.jp/ggippss/
【第1回】他の4人を読む
■石川美南――ほどほどの出会い
■川野里子――薬剤師の後ろ姿
■チェンジアッパー――おだやかな空気感
■松澤俊二――表現レベルでの執念
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第1回(あさがお)
2009-08-16T23:40:23+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=778964
【第1回(あさがお)】 石川美南
『青蝉』の巻頭を飾る魅力的な歌だが、読み解こうとすると案外難しい。
まず、「あさがおが朝を選んで咲く」の解釈にやや迷う。ひとつは、一輪の朝顔が、たくさんの朝の中から「この朝」を選んで咲く、という解釈。もうひとつは、朝・昼・夕のうち、朝を選ぶと...
『青蝉』の巻頭を飾る魅力的な歌だが、読み解こうとすると案外難しい。
まず、「あさがおが朝を選んで咲く」の解釈にやや迷う。ひとつは、一輪の朝顔が、たくさんの朝の中から「この朝」を選んで咲く、という解釈。もうひとつは、朝・昼・夕のうち、朝を選ぶという解釈だ(どちらを採るかによって、「ほどの」のニュアンスも変わってくる)。前者であれば、意志的に掴み取った一生に一度のタイミング、ということになるが、どちらかと言えば、私は後者を採りたい。
丈の高い向日葵でも、華美な薔薇でもなく、朝顔と重ねられている二人の関係は、あくまでもさりげなく、慎ましい。運命の恋人なんていう大それたものではない、お互いがごく自然に選び取った、ほどほどの出会い。けれども語り手は、その「ほどほど」をこそ、大切に思っているのではないか。
確かに向日葵や薔薇と比べれば庶民的な花だが、朝一番に開く朝顔には、日暮れ前にひっそりと咲く夕顔のような、儚げな表情はない。朝・昼・夕の三つしかない選択肢の中で、朝を選んだという、そのほんのちょっぴりの前向きさ加減が、今、二人をつないでいる。どちらが先を行くでもなく肩を並べて歩く二人に、目立たないけれど確実に奇跡は訪れているのだ。
★
石川美南(いしかわ・みな)
1980年生まれ。同人誌poolおよび[sai]で活動。歌集『砂の降る教室』、私家版『物語集』『夜灯集』。集英社「すばる」で「ききみみはひだり耳」連載中。
山羊の木http://www.yaginoki.com/
【第1回】他の4人を読む
■我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
■川野里子――薬剤師の後ろ姿
■チェンジアッパー――おだやかな空気感
■松澤俊二――表現レベルでの執念
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第1回(あさがお)
2009-08-16T23:35:57+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=778958
【第1回(あさがお)】 川野里子
朝顔はなぜ朝咲くのか。昼顔、夕顔、と並べてゆくと、朝顔は朝という時を「選んで」咲くのだと思える。自然の営みの中で、生き残るために選ばれたに違いないその選択は、はかないようであって、微かに意志的でもある。その微かさに吉川の嗅覚が働いているのだ。人...
朝顔はなぜ朝咲くのか。昼顔、夕顔、と並べてゆくと、朝顔は朝という時を「選んで」咲くのだと思える。自然の営みの中で、生き残るために選ばれたに違いないその選択は、はかないようであって、微かに意志的でもある。その微かさに吉川の嗅覚が働いているのだ。人は人を選べるのだろうか?それは偶然か、意志か、運命か。人が人と出会う不思議は、それら人間界の手垢にまみれた言葉で考えるより、朝顔が朝を選んで咲く、あの微かな意志に代弁させたほうがずっといい。
短歌でしか描けないこの世の隙間に宿る事物の神聖さを吉川は好んでいる。それはしばしば薬を調合するときの指先の敏感さのようで、天秤に粉末をあとわずかに足すためにトントンと微かに人差し指で匙を打つ時の風景さえ浮かんでくる。あと一つトンと指さきを動かせば自然界のあの不思議が掴めるだろう。そのトンの加減に全神経を集中している薬剤師の後ろ姿が思われる。
★
川野里子(かわの・さとこ)
1959年大分県生まれ。23歳で作歌を始め、歌誌「かりん」に入会。
馬場あき子に師事。現在かりん編集委員。
歌集に『五月の王』『青鯨の日』『太陽の壷』。
2009年6月『幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』出版。
【第1回】他の4人を読む
■我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
■石川美南――ほどほどの出会い
■チェンジアッパー――おだやかな空気感
■松澤俊二――表現レベルでの執念
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第1回(あさがお)
2009-08-16T23:32:27+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=778948
【第1回(あさがお)】 チェンジアッパー(屏真太朗)
今回の歌を読んで、第一印象は、恋愛の歌だと私は思いました。肩を並べているのは大切な人で、そのひとと過ごす普通のひとときにふと、このひとと出会えて本当によかったと思っている歌だと感じました。この歌で驚かされるところは「あさがおが朝を選んで咲くほどの出...
今回の歌を読んで、第一印象は、恋愛の歌だと私は思いました。肩を並べているのは大切な人で、そのひとと過ごす普通のひとときにふと、このひとと出会えて本当によかったと思っている歌だと感じました。この歌で驚かされるところは「あさがおが朝を選んで咲くほどの出会い」というところです。私はこれを「運命の出会い」と読み取りました。朝顔が朝に咲くのは(朝に咲く理由を私は知りませんが)ほぼ運命的なものだと思います。これが大切な人と出会えた奇跡のようなものを感じさせます。しかも、あさがおを使ったことにより、歌にゆるやかな・おだやかな空気感が漂っている気がします。このすこしひっかかるような表現が歌に深さを与えていると思います。あさがおを詠者が用いたのは、大切な人との思い入れがあるのかもしれません。たとえこれが妄想深読みであっても、歌にリアル感を出す効果があると思いました。
私は吉川宏志さんについて全く存じ上げていないので、歌に、詠者に、どのような背景があるか全く分からないので、歌だけからいろいろ妄想しながら読みました。
子どものつたない感想文で、申しわけなかったですけど、読んでいただいた方々、吉川宏志さん、今回書かせていただく機会をくださった石川美南さん、他多数の方々、本当にありがとうございました。
★
チェンジアッパーこと、屏(へい)真太朗と申します。平成5年生まれの高校一年生です。高校球児(万年補欠の補欠の補欠)です。08年12月から短歌を作り始めました。夢は、甲子園に出ること・短歌をポピュラーにすることです。
私の短歌ブログ「手元で落ちて」です。http://changeupper.anisen.tv/
【第1回】他の4人を読む
■我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
■石川美南――ほどほどの出会い
■川野里子――薬剤師の後ろ姿
■松澤俊二――表現レベルでの執念
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第1回(あさがお)
2009-08-16T23:16:44+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=778935
【第1回(あさがお)】 松澤俊二
生け垣にいくつかあさがおが咲く。それぞれがそれぞれの思いでこの朝を選び咲くのだが、花々は、たまたまこの朝に隣り合っただけなのか。否。互いに何か引き合うように咲くこともあるのではないか。この朝のことを、何か運命のように思ったとしても、実はさほどおおげ...
生け垣にいくつかあさがおが咲く。それぞれがそれぞれの思いでこの朝を選び咲くのだが、花々は、たまたまこの朝に隣り合っただけなのか。否。互いに何か引き合うように咲くこともあるのではないか。この朝のことを、何か運命のように思ったとしても、実はさほどおおげさとは言えぬのではないか。
歌は、一句目から三句目にまたがるあさがおのイメージを、四句目の「出会い」へと序詞的に重層させてゆく。もし、上で述べたように、いくつかのあさがおが同じ朝を選びとることに偶然を越えたものがあるのならば、その「出会い」とは、「肩並べ」歩くことは、けして軽々しいものではなく必然的なものとして詠い出されていることになろう。
ところで評者は、この歌を一読後、さわやかな、ソフトなイメージを受け取った。確かに「ほどの」や「つつ」などの語は、あさがおに支えられた一首全体のイメージに棹さして、歌をやわらかく、あわく、さわやかに仕上げるのに一役買っている。だが実は、それは計算づく(当たり前のことではあるが)で、これらの措辞により、あさがおとあさがおとが結ばれる強靱な意志と計画とが隠蔽される結果となっている。だいたい先の序詞的な技法といい、また一句目から五句目を貫く頭韻といい、更に選び出された簡単な語彙といい、表現のレベルにおいて、その修辞、措辞は大変に的確で、注意深く錬られているのだ。読者に手渡されるイメージとは全く異なる、表現レベルでの執念が、かかる秀歌を支えているのだろう。
★
松澤俊二(まつざわ・しゅんじ)
名古屋大学大学院にて、近代和歌、短歌の功罪について思案中。
【第1回】他の4人を読む
■我妻俊樹――「ほどの」をここに置くことのできる存在
■石川美南――ほどほどの出会い
■川野里子――薬剤師の後ろ姿
■チェンジアッパー――おだやかな空気感
■「ゴニン デ イッシュ」とは
]]>
第1回(あさがお)
2009-08-16T23:00:46+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa
-
http://tanka.yaginoki.com/?eid=778933
「ゴニン デ イッシュ」とは
石川美南・橋目侑季WEBサイト「山羊の木」の
期間限定企画「ゴニン デ イッシュ」のためのブログです。
毎月、ある短歌1首について、5人の方に鑑賞文を書いていただく、
というシンプルな企画です。
当たり前のことですが、どんな短歌でも人によって読み方が...
期間限定企画「ゴニン デ イッシュ」のためのブログです。
毎月、ある短歌1首について、5人の方に鑑賞文を書いていただく、
というシンプルな企画です。
当たり前のことですが、どんな短歌でも人によって読み方が異なるものです。
互いの読みを持ち寄ることで、歌の味わいが変わっていく。
そんな現場を見てみたいという、ごく素朴な願いから始めました。
ひとまず、6回続けるのが目標です。
鑑賞が読んでみたい!と思った方に、手当たり次第お声をおかけしていきます。
終了時までには、30人の方にご登場いただくことになります。
(※2010年7月、終了しました)
■第1回(あさがお)
■第2回(卵)
■第3回(みずな)
■第4回(罪)
■第5回(公務)
■第6回(逆)
この記事と第6回のトップページのみコメント・トラックバックを受け付けております。
石川美南アドレス↓
shiru★m13.alpha-net.ne.jp(★を@にかえてください)
にも、ご意見・ご感想お待ちしております。
山羊の木 http://www.yaginoki.com/
]]>
ゴニン デ イッシュとは
2009-08-16T22:54:54+09:00
minaishikawa
JUGEM
minaishikawa